第29話 「巡りゆく季節と、心に灯る道しるべ (前編)」
内田航平が新たな目標を見つけ、再び力強く歩み始めてから数ヶ月。
季節は凍えるような冬を越え、校庭の桜の蕾もほのかに膨らみ始めた早春。
3年生の卒業式が間近に迫り、2年B組の生徒たちも、最上級生になることへの自覚と、それぞれの未来への期待と不安を胸に抱き始めていた。
これまでの様々な出来事を経て、道真の周りのクラスメイトたちは、見違えるように人間的に成長していた。
誰かが悩んでいれば、以前自分がしてもらったように自然と寄り添い、言葉をかける。
意見がぶつかりそうになっても、頭ごなしに否定するのではなく、相手の言い分に耳を傾け、多角的に物事を見ようと努力する。
それは、真が折に触れて語ってきた「八つのカギ」や「じっちゃんの知恵」が、特別な教えとしてではなく、彼らの日常の中に息づく「生きる力」として、確かに根付いている証だった。
卒業を控えた3年生を送る会や、部活動の引継ぎの場では、先輩たちから後輩たちへ、様々なメッセージが贈られた。
特に、推薦入試で一度は絶望の淵に立たされながらも、新たな道を見つけて力強く歩み始めた田中誠先輩の言葉は、多くの2年生の胸を打った。
「俺は、一度大きな挫折を経験した。あの時は、もう何もかも終わりだと思った。でもな、今なら分かる。結果だけが全てじゃない。どんな経験も、どんなに苦しい道のりも、必ず次の自分に繋がってるんだ。だから、お前たちも、失敗を恐れずに、何度でも立ち上がって、自分の信じる道を進んでほしい」
その言葉は、涙ながらに語られ、聞いている後輩たちの目にも熱いものが込み上げていた。
橘凛は、クラス委員としての経験や、数々の悩み解決に真と共に(あるいは見守る形で)関わってきたことを通じて、以前の堅物で融通の利かなかった自分から、他者への深い共感と、状況に応じた柔軟なリーダーシップを発揮できるまでに成長していた。
一条茜もまた、親の期待という見えない鎖から解き放たれ、自分の夢に向かって生き生きと努力する中で、以前のどこか張り詰めたような華やかさとは違う、内面から滲み出るような、落ち着いた輝きを放っていた。
二人は、依然として真に特別な感情を抱いていたが、その形は少しずつ変化していた。
以前のような、胸を焦がすような独占欲や、相手と自分を比べて一喜一憂するような不安定さは薄れ、もっと成熟した、相手の幸せを心から願い、そして友人として互いを尊重し合うような、穏やかで深い想いへと変わりつつあった。
「道君がいてくれたから、私、本当に変わりたいって思えたんだよね」
「あなたと出会わなかったら、私、きっと今もずっと、窮屈な服を着たままだったわ」
時折、そんな感謝の言葉を真に伝える凛や茜の表情は、とても晴れやかだった。
真自身もまた、この一年余りの時間を通して、クラスメイトたちから多くのことを学び、彼らへの深い信頼感を抱いているようだった。
以前は、どこか一歩引いた場所から全体を眺めているような雰囲気があったが、最近ではより自然にクラスの輪の中に溶け込み、一緒に馬鹿話で笑ったり、誰かの悩みに真剣に耳を傾けたりする姿が多く見られるようになった。
彼が語る「じっちゃんの知恵」も、以前のような一方的な教え諭すというよりは、「なあ、こんな考え方もあるんじゃねえか?」と、一緒に答えを探していくような、より柔らかな響きを帯びていた。
そんなある日、卒業式の準備を巡って、実行委員の間で小さな意見の衝突が起きた。
送辞を読む代表生徒の人選や、式の装飾のテーマについて、なかなか意見がまとまらず、会議の空気が少しギスギスし始めていたのだ。
しかし、その場にいた凛や、他の2年生の実行委員たちは、以前のように感情的になったり、誰か一人の意見に流されたりすることはなかった。
「ちょっと待って、それぞれの案の良いところと、心配なところを、もう一度整理してみない?」
「多数決で決めるのも一つだけど、みんなが少しでも納得できる形を探したいよね」
「去年の先輩たちは、どうやって決めたんだろう? 少し参考にしてみるのもいいかもしれないね」
彼らは、真がかつて示してくれた「正しい見方」や「正しい考え」、「正しい言葉」を思い出すかのように、冷静に、そして建設的に話し合いを進めていく。
真は、その様子を少し離れた場所から、微笑ましそうに、そしてどこか頼もしそうに見守っていた。
彼が直接介入しなくても、生徒たちはもう、自分たちの力で問題を解決し、より良い方向へと進んでいく力を身につけ始めていたのだ。
卒業式まで、あと数日。
別れの季節が、すぐそこまで近づいてきている。
期待と不安、そして一抹の寂しさを胸に、彼らは残された時間を噛みしめるように、大切に過ごそうとしていた。
そして、真は、ふと隣を歩いていた凛に対して、これまでのどんな言葉とも違う、特別な響きを込めた一言を、そっと投げかけるのだった。
それは、彼らの物語の最終章へと繋がる、新たな扉の鍵となるのかもしれない。