第28話 「折れた翼と、見えないゴールテープ (後編)」
道真の「道のりそのものには、何の意味もなかったのか?」という言葉は、内田航平の心の中で、まるで終わらないエコーのように響き続けていた。
病院の白い天井を見上げながら、彼はこれまでの陸上競技に捧げた日々を、一つ一つ反芻していた。
朝早く起きて走り込んだグラウンドの土の匂い、仲間と汗を流した練習の後の心地よい疲労感、自己ベストを更新した時の、天にも昇るような喜び…。
それらは本当に、全てが無駄だったのだろうか?
松葉杖が手放せない日々の中で、内田のもとへは、クラスメイトや陸上部の仲間たちが、入れ替わり立ち替わり見舞いに訪れた。
橘凛や一条茜も、心配そうな顔で何度も顔を見せてくれた。
「内田君、無理しないでね。何かできることがあったら、いつでも言って」
「みんな、内田君が戻ってくるの待ってるから」
そんな温かい言葉に、内田の心は少しずつ解きほぐされていった。
特に、陸上部の仲間たちが語る言葉は、彼の胸を強く打った。
「お前がいたから、俺たちもここまで本気で練習できたんだぜ」
「お前のあのストイックな姿が、俺たちの目標だったんだ。お前がいないと、なんか締まらなくて…」
「お前の走りは、俺たちの希望だった。だから、今はゆっくり休んで、また絶対に戻ってこいよ!」
仲間たちの言葉は、内田がチームにとって、決して単なる「速い選手」というだけの存在ではなかったことを、改めて気づかせてくれた。
ある日、リハビリの帰り道、真がまたひょっこりと内田の前に現れた。
「よう、内田。リハビリ、順調か?」
「…まあな」内田は、まだ少し力なく答えた。「少しは前向きに考えようと思うんだけどさ…やっぱり、悔しくて、何のためにあんなに死に物狂いで頑張ってきたのか、時々分からなくなるんだよ」
真は、黙って内田の言葉に耳を傾けた後、ゆっくりと口を開いた。
「努力ってのはさ、畑に種を蒔くみてえなもんだと思うんだよな。一生懸命土を耕して、毎日水をやって、愛情込めて育てても、必ずしも自分が思い描いた通りの立派な花が咲いたり、甘くてデカい実がなったりするとは限らねえ。時には、長雨にやられたり、日照り続きで枯れちまったり、腹を空かせた虫に食われたりもする」
内田は、真の言葉を黙って聞いていた。
「でもな、内田。たとえ思った通りの収穫が、その時にはなかったとしてもだ。その畑を一生懸命耕したことで、土そのものがふかふかで良質なものになったり、次にどんな種を蒔けばいいか、もっとうまく育てるための知恵がついたりするかもしれねえ。あるいは、そのお前が必死に畑を耕してる姿を見てた誰かが、『俺も何か始めてみようかな』って勇気をもらったりするかもしんねえだろ?」
真の目は、どこまでも優しく、そして力強かった。
「蒔いた種からどんな芽が出て、どんな花が咲いて、どんな実がなるかなんて、すぐには分かんねえもんだし、一つの立派な実がならなかったからって、そこでした努力の全部が、無駄だったってわけでも決してねえんだぜ。その土壌は、必ず次の何かに繋がってる」
真の「種蒔き」の比喩は、内田の心に深く染み渡った。自分の努力の成果は、全国大会出場という目に見える結果だけではなかったのかもしれない。
自分が必死に走ってきたその道のりが、知らず知らずのうちに、仲間たちに、そしてもしかしたら自分自身にも、何か大切なものを残していたのかもしれない。
松葉杖が取れるようになった頃、内田は久しぶりに陸上部の練習に顔を出した。走ることはまだできない。
それでも、彼はグラウンドの隅で、仲間たちの練習をじっと見つめていた。
そして、自然と後輩たちに声をかけ、自分の経験に基づいたアドバイスをするようになっていた。
「今のスタート、ちょっと腰が浮いてるぞ。もう少し前傾姿勢を意識してみろ」
「ラストスパート、苦しいけど、そこで一歩踏み出せるかどうかが勝負だ」
彼の言葉は的確で、そして何よりも、経験に裏打ちされた重みがあった。
後輩たちは、真剣な眼差しで内田の言葉に耳を傾け、彼の的確なアドバイスに心からの感謝を示した。
仲間たちは、内田を新たな形で頼りにし始めていた。走れなくても、自分にできることがある。
自分だからこそ果たせる役割がある。
その気づきは、内田の心に新しい光を灯した。
そして、運命の地区予選の日。
内田は、チームのサポートメンバーとして、スタンドから仲間たちの走りを見守った。
仲間たちは、内田の想いを、そして彼が築き上げてきたチームの魂を、まるでタスキのように繋いで力走した。
結果は、チームとしての過去最高の成績。
数名が、見事に次の大会への出場権を獲得したのだ。
試合後、興奮冷めやらぬ仲間たちが、内田のもとへ駆け寄ってきた。
「内田! やったぞ! お前のおかげだ!」
「お前が毎日、俺たちの練習見てくれたから、ここまで来れたんだ!」
「一緒に戦ってくれて、本当にありがとう!」
その言葉と、仲間たちの涙で濡れた笑顔を見た瞬間、内田の目からも、熱いものがとめどなく溢れ出した。
それは、もう悔しさの涙ではなかった。
自分が走れなくても、自分の努力や想いが、確かに仲間に繋がり、チーム全体の力となっている。
その事実が、彼の心を震わせたのだ。
「…俺の努力は、無駄じゃなかったんだな…」
内田は、涙を拭いもせず、力強く頷いた。
「これからは、俺にできるやり方で、みんなを支えていく。そして、いつか必ず、俺もまたこのトラックに戻ってくる!」
夕焼けのトラックを見つめる内田の横顔には、以前のストイックなまでの厳しさに加え、深い優しさと、そして何物にも代えがたい人間的な強さが宿っていた。
凛や茜、そして真は、そんな内田の姿を、心からの敬意と共に見守っていた。
「折れちまった翼も、ちゃんと手当てして、焦らずに、そして今までとは違う飛び方を覚えりゃ、前とは違う景色が見える、もっともっと高い空へだって、きっと飛べるもんなのかもしんねえな」
真の呟きは、隣にいた凛の心にも、温かく、そして力強く響いた。
――人生は思い通りにならないことばかりかもしれない。
しかし、その苦しみや挫折の中から、新たな意味を見つけ出し、立ち上がり、再生していく人間の強さと美しさ。
それを、2年B組の生徒たちは、また一つ、深く胸に刻んだのだった。
そして、卒業や進級という、人生の大きな節目が近づく中で、彼らはそれぞれが、自分自身の「ゴールテープ」に向かって、新たな一歩を踏み出そうとしていた。