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第27話 「折れた翼と、見えないゴールテープ (前編)」

一条茜いちじょう あかねが自分らしい未来へと舵を切り始めてから数週間。


2年B組の教室には、それぞれの進路や目標に向けて真剣に取り組む、どこか引き締まった空気が流れ始めていた。


道真みち まことは、そんなクラスメイトたちの変化を、時に茶化し、時に温かい眼差しで見守っている。


橘凛たちばな りんもまた、茜との間に生まれた新たな友情を大切にしながら、自分自身の進むべき道について、より深く考えるようになっていた。


そんな中、クラスで、いや、学校全体で一際大きな期待を背負っていた生徒がいた。


陸上部に所属する2年生の内田航平うちだ こうへいだ。


彼は短距離走のエースとして、ストイックなまでに練習に打ち込み、その実力は全国レベルに達しようとしていた。


彼の目標はただ一つ、春の全国大会に出場し、表彰台に上がること。


そのために、彼は日々の厳しいトレーニングにも耐え、食事制限や体調管理も徹底し、陸上競技に全てを捧げていた。


そのひたむきな努力と、着実に記録を伸ばしていく姿は、多くの生徒たちに勇気と感動を与えていた。


全国大会の最終予選となる大きな記録会が、数週間後に迫っていた。


内田の調整は順調に進み、自己ベスト更新も目前と思われた。


彼自身も、これまでの努力が実を結ぶ瞬間を、確かな手応えと共に感じていた。


クラスメイトたちも、固唾をのんで彼の活躍を期待していた。


しかし、運命は時に残酷だ。


記録会を一週間後に控えた、ある雨上がりの練習中だった。


内田は、スタートダッシュの練習で、濡れたトラックにわずかに足を取られた。


体勢を崩し、無理な力がかかった右足首に、激痛が走る。


「うわあああああっ!」


内田の悲鳴が、静まり返ったグラウンドに響き渡った。


診断結果は、重度の靭帯損傷。全治数ヶ月。


春の全国大会出場は、絶望的だった。


病院のベッドの上で、ギプスで固められた自分の足を見つめながら、内田は言葉を失った。


これまでの努力、費やした時間、犠牲にしてきたもの全てが、一瞬にして水の泡と消えた。


どうして今なんだ。


なぜ俺なんだ。


あんなに頑張ってきたのに、こんな形で終わるなんて…。


深い絶望感と、やり場のない怒り、そして自分の不運を呪う気持ちが、彼の心を支配した。


「もう何もかも終わりだ…」


「俺の陸上人生は、ここで終わったんだ…」


夢を絶たれたショックと、身体的な痛み、そして真っ暗な未来への不安で、彼は心を固く閉ざしてしまった。


見舞いに来たチームメイトや顧問の教師、心配する友人たちの励ましの言葉も、今の彼には全く届かない。


「慰めなんていらない」「俺のこの気持ちなんて、誰にも分かりっこない」。


そう言って、彼は誰とも話そうとしなくなった。


凛や茜、そしてクラスメイトたちも、内田の突然の悲劇に大きなショックを受け、心を痛めていた。


特に、彼のストイックな努力を間近で見てきた者たちは、かける言葉も見つからず、ただ彼の身に起きた不運を嘆くしかなかった。


「内田君、本当に辛そうで…私たちに、何かできることはないのかな…」


昼休み、教室の窓から見える、今は主のいない陸上部のトラックを眺めながら、凛が真にポツリと呟いた。


真は、いつものように購買で買ったカレーパンをゆっくりと咀嚼しながら、静かにそのトラックに目をやっていた。


彼には、内田が今感じているであろう、努力が報われなかったことへの深い絶望と、目標を失ったことによる虚無感が、痛いほど伝わってきているようだった。


数日後、真は、松葉杖をつきながら、一人でリハビリ室へ向かう内田の姿を校内で見かけた。


その背中は力なく丸まり、顔には生気がなく、まるで魂が抜け殻のようだった。


「よう、内田。足の具合、どうだ?」


真が、いつものように飄々とした、しかしどこか相手の心を見透かすような口調で声をかけると、内田は驚いたように顔を上げたが、すぐにまた俯いてしまった。


「…別に。お前には関係ないだろ」


その声は、棘々しく、そしてひどく弱々しかった。


「まあ、そう言うなよ」


真は、内田の隣に並んでゆっくりと歩きながら言った。


「今回のこと、本当に悔しいよな。あんだけ歯ぁ食いしばって、血の滲むような努力してきたの、俺だって見てたからな。それがこんな形で…言葉もねえよ、本当に」


その言葉は、内田の心の奥底にわずかに残っていた、誰かにこの苦しみを分かってほしいという小さな叫びに、そっと触れたようだった。


内田の目から、こらえきれない涙が一筋、頬を伝った。


「でもな、内田」真の声のトーンが、少しだけ真剣なものに変わる。「お前が今までトラックの上で流してきた汗とか、費やした時間とか、そういう血と涙の結晶みてえなもんって、本当に全部、今回の怪我一つで、チャラになっちまうもんなんだろうか?」


「……!」


内田は、顔を上げ、真の目を睨みつけた。


「確かに、目標にしてた全国大会には、今回は出られねえかもしんねえ。でも、そのゴールテープを目指して、お前が死に物狂いで走り続けてきた、その道のりそのものには、何の意味もなかったって、お前は本気でそう思うのか?」


「今さら…今さらそんなこと言われたって…! 結果が出なきゃ、意味ないんだよ! 全部、無駄だったんだよ!」


内田の叫び声は、悲痛な響きを帯びて、誰もいない廊下に虚しく響いた。


真は、そんな内田の魂の叫びを、ただ黙って受け止めていた。


彼の絶望は、あまりにも深く、そして暗い。


しかし、真の瞳の奥には、この大きな挫折の先に、まだ内田自身も気づいていない「何か」があるはずだという、静かな確信が灯っているようだった。


折れた翼を抱え、見えないゴールテープの前で立ち尽くす内田。彼はこの絶望から抜け出すことができるのだろうか。


そして、真の言葉は、彼の心の奥底に、どんな小さな光を灯すことができるのだろうか。




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