第26話 「見えない鎖と、心の羅針盤 (後編)」
道真の
「玉ねぎ」
「窮屈な服」
という言葉は、一条茜の心の中で、無視できないほどの大きな存在となっていた。
三者面談の日が刻一刻と近づくにつれ、母親の期待という見えない鎖は、まるで彼女の呼吸を止めるかのように、首筋にきつく食い込んでくる。
眠れない夜、茜はベッドの中で何度も寝返りを打ちながら、自分の心の奥底からの小さな叫びに耳を澄ませていた。
「本当は何がしたいの?」
「誰のために生きてるの?」
追い詰められた茜は、ある日の放課後、誰もいない教室で橘凛を待っていた。
そして、凛の姿を見るなり、堰を切ったように自分の胸の内を吐き出したのだ。
医者の家系であること、幼い頃から「完璧な娘」であることを求められてきたこと、医学部進学という決められたレール、そして、本当はデザインやアートの世界に強く心を惹かれていること…。
涙で言葉を詰まらせながら語る茜の姿は、普段の華やかで自信に満ちた彼女からは想像もつかないほど、弱々しく、痛々しかった。
「私、もうどうしたらいいか分からないの…! 期待に応えなきゃって思うけど、そう思えば思うほど、心が息苦しくて、壊れちゃいそうで…!」
凛は、茜の肩を抱き寄せ、ただ黙ってその震える背中をさすり続けた。
以前、自分が抱えていた苦悩や、真の言葉で救われた経験が、鮮やかに蘇ってくる。
今は、どんな言葉よりも、ただそばにいて、彼女の痛みを受け止めることが一番だと感じていた。
翌日、凛は茜の了承を得て、真にも相談を持ち掛けた。
人気のない屋上で、茜は、昨日凛に話したことと同じ内容を、今度は真に対しても、途切れ途切れに、しかし必死で語った。
真は、茜の言葉を一言も聞き漏らすまいとするかのように、じっと彼女の目を見つめ、静かに耳を傾けていた。
全てを話し終えた茜が、俯いて嗚咽を漏らすと、真はゆっくりと口を開いた。
「茜、あんたの心の羅針盤はさ、本当はどっちの方角を指してるんだ? 北を指してるのに、無理やり南へ南へと船を進めようとしてたら、そりゃあいつか嵐に巻き込まれて難破しちまうぜ」
茜は、ハッとして顔を上げた。
「親の期待に応えたいっていう気持ちも、自分の夢を追いかけたいっていう熱い気持ちも、どっちも嘘偽りのない、あんた自身の素直な心の声だ。どっちかを選んだら、もう片方を完全に捨てなきゃいけない、なんてことはねえのかもしんねえ。大事なのはさ、どっちのエンジンの力で、あんた自身の人生っていうたった一艘の船を、これから進めていきたいのか、ってことだ」
真の言葉は、優しく、しかし確かな力強さをもって、茜の心に染み込んでいく。
「どんな道を選んだってな、後悔しない人生なんて、たぶんねえよ。でもな、自分で悩み抜いて、自分で選んだ道なら、その道でどんな花を咲かせるかも、自分で見つけられるはずだ。誰かに見せられた立派な花束より、たとえ小さくても、自分で見つけた一輪の花の方が、ずっと綺麗で、ずっと愛おしいもんなのかもしんねえぜ」
真の言葉と、凛の変わらぬ友情に背中を押され、茜の心に、今まで感じたことのないような、小さな、しかし確かな勇気が芽生え始めていた。
「自分の人生は、自分で決めるんだ」――。
そして、運命の三者面談の日。
面談室に入る直前、茜の手は緊張で冷たく震えていた。
隣に付き添ってくれた凛が、そっとその手を握りしめる。
「大丈夫、茜ならできるよ」。
その温かさに、茜は涙がこみ上げてくるのを必死でこらえた。
面談が始まり、母親がいつものように
「茜は医学部に進み、立派な医者になります」
と、淀みなく語り始める。
教師も、それに異を唱える様子はない。
しかし、母親の言葉が終わった瞬間、茜は、今まで出したこともないような、はっきりとした声で言った。
「お母さん、先生。私には、他にやりたいことがあります」
母親の顔が驚きと怒りに染まり、教師は戸惑いの表情を浮かべる。
それでも、茜は怯まなかった。
震える声で、しかし一言一言に魂を込めて、自分の本当の夢、デザインの世界で生きていきたいという熱い想いを、自分の言葉で語り始めたのだ。
それは、彼女にとって初めての、誰のためでもない、「本当の自分」のための戦いだった。
面談がどういう結果になったのか、その詳細は描かれない。
しかし、数日後、教室に現れた茜の表情は、以前とは比べ物にならないほど、晴れやかで、どこか吹っ切れたような清々しさに満ちていた。
それは、まるで重い鎧を脱ぎ捨て、初めて心の底から深呼吸ができたような、そんな解放感に溢れた笑顔だった。
「まだ、お母さんには全部理解してもらえたわけじゃないけど…でも、私、自分の気持ち、ちゃんと伝えられた。これから、もっともっと大変かもしれないけど、私、諦めないで頑張ってみる!」
そう言って笑う茜の笑顔は、完璧ではないかもしれないけれど、今までで一番美しく、そして力強かった。
凛は、そんな茜の姿を、涙ぐみながらも心からの笑顔で見つめていた。
ライバルだと思っていた存在が、今ではかけがえのない友人へと変わっていた。
「よかったね、茜…! 本当によかった…!」
「うん! 凛がいてくれたからだよ。本当にありがとう!」
二人は、どちらからともなく手を握り合い、その喜びを分かち合った。
放課後、茜は真のもとへ駆け寄った。
「道君! 私、言えたよ! 本当に、ありがとう…! あなたの言葉がなかったら、私、ずっと動けなかったと思う」
真は、いつものようにニヤリと笑って言った。
「よお、一条。なかなかいい顔つきになったじゃねえか。自分で選んだ服は、やっぱりそれが一番、あんたに似合うもんだな。おめでとう、新しい船出に乾杯だ」
その言葉は、茜の心に、何よりも温かい祝福として響いた。
「自分とは何か」
――その問いに、絶対的な答えはないのかもしれない。
しかし、自分の心の声に正直に耳を澄ませ、悩み、迷いながらも、自分自身の足で人生を選び取っていくこと。
そのプロセスそのものが、一番自分らしい輝きを放つのだと、2年B組の生徒たちは、また一つ、大切な「心のカギ」を手に入れたのだった。
そして、彼らの前には、また新たな日常と、そこで生まれるであろう様々な喜びや悲しみ、そして成長の物語が、静かにその幕を開けようとしていた。