第25話 「見えない鎖と、心の羅針盤 (前編)」
桜井葉月が愛犬ココとの思い出を胸に、新たな一歩を踏み出してからしばらく経った晩秋。
2年B組の教室では、窓から差し込む陽射しもどこか柔らかさを帯び、生徒たちは期末テストの結果に一喜一憂しつつも、少しずつ具体的な自分の将来や進路について考え始める時期を迎えていた。
道真は相変わらず、そんなクラスの日常を、時にユーモラスに、時に鋭い観察眼で見つめている。
一条茜は、以前の「完璧な仮面」を少しずつ外し、より自然体でクラスに溶け込んでいるように見えた。
持ち前の明るさに加え、時折見せるドジな一面や素直な感情表現は、かえって彼女の人間的な魅力を増し、多くの友人たちから親しまれていた。
橘凛との間にも、道真を巡るライバル意識は残りつつも、それとは別に、互いを認め合うような不思議な友情が芽生え始めていた。
しかし、そんな茜の笑顔の裏に、新たな影が差し始めていることに、凛はうっすらと気づいていた。
特に、進路に関する三者面談の時期が近づくにつれ、茜の表情が曇りがちになり、ふとした瞬間に遠くを見つめるような、どこか物憂げな様子を見せることが増えたのだ。
家庭の話題や、将来の夢について尋ねられると、彼女は巧みに話を逸らしたり、明るく振る舞っていても、その目が笑っていなかったりすることがあった。
実は茜の家庭は、代々続く医者の家系で、両親、特に母親からは「茜も当然、医学部に進んで立派な医者になるのよ」「常に一番で、完璧な娘でいなさい」という、言葉にはされないながらも強い期待とプレッシャーを、幼い頃から受け続けていた。
転校も父親の仕事の都合だったが、新しい環境でも「一条家の娘として恥ずかしくないように」という無言の圧力が、常に彼女の肩に重くのしかかっていたのだ。
彼女のこれまでの明るさや積極性、そして何でもそつなくこなすように見えた「完璧さ」は、実はその重圧から自分を守り、期待に応えようとするための、必死の鎧だったのかもしれない。
そして今、自分の本当にやりたいことと、親の期待との間で、彼女の心は大きく揺れ動いていた。
道真は、茜のその笑顔の裏に隠された緊張感や、彼女が時折見せる「作られた明るさ」に、以前からうっすらと気づいていた。
彼女が、自分ではない誰かの期待という見えない鎖に縛られていることを見抜いていたのだ。
ある日の放課後、茜が教室で一人、大学のパンフレットを前に深いため息をついていると、真がいつものようにひょっこり現れた。
「よお、一条。なんか、人生の岐路で立ち往生してる旅人みてえな、切実な顔してんぞ」
「…道君」
茜は、慌ててパンフレットを隠そうとした。
「別に、何でもないわ」
「そうは見えねえけどな」
真は、茜の隣の席に腰を下ろすと、窓の外を眺めながら言った。
「なあ一条、あんたさ、その手に持ってる地図、本当にあんたが行きたい場所を指してるのか? それとも、誰かに『こっちへ行け』って渡された地図を、ただ必死に眺めてるだけだったりしねえか?」
茜は、真の言葉に胸を突かれたように、息をのんだ。
「誰かの期待に応えるのも、まあ、立派なことかもしんねえ。でもな、そのために自分の心の声、聞こえないフリしてたら、いつか自分の心の羅針盤、壊れちまうぜ。そしたら、どこへ行きたいのかも、今どこにいるのかも、分からなくなっちまう」
凛もまた、茜の最近の様子がおかしいことに気づき、深く心配していた。
以前はライバルとして、どこか張り合っていた部分もあったが、体育祭での出来事を経て、今は一人の友人として彼女の力になりたいと強く思っていた。
ある日、進路相談室から出てきた茜が、明らかに落ち込んだ様子で廊下の隅にうずくまっているのを見つけた凛は、思い切って声をかけた。
「一条さん…何か、あったの? 私でよかったら、話、聞くよ」
茜は、最初は
「何でもないから、気にしないで」
と強がって笑顔を作ろうとしたが、凛の真っ直ぐで、心配そうな眼差しに触れ、ついに堪えきれなくなったように、その瞳から涙が溢れ出した。
「…私、どうしたらいいのか分からないの…」
それは、今まで誰にも見せたことのない、茜の弱々しい本音だった。
その頃、クラスでは、進路選択を前にして、自分の「適性」や「本当にやりたいこと」について悩む生徒が増えていた。
そんな彼らの姿を見ていた真が、ある日のホームルームの終わりに、ぽつりと呟いた。
「人間ってのはさ、面白いもんで、玉ねぎみてえなもんなのかもしんねえな」
生徒たちは、きょとんとして真を見る。
「一枚一枚皮を剥いていっても、最後に『これが本当の芯だ!』なんてものは、どこにも出てこねえ。剥いても剥いても、ただ玉ねぎの層があるだけだ。でもな、その一枚一枚の皮、全部が、紛れもなく玉ねぎそのものなんだよな。どれか一つが『本当の自分』で、他が『偽物の自分』ってわけじゃねえ」
真の言葉は、特に茜の心に深く、そして鋭く響いた。
「『こうあるべき自分』なんてのは、誰かが勝手に作った、サイズの合わねえ窮屈な服みてえなもんだ。本当に自分に似合って、着てて心地いい服は、結局、自分で試行錯誤しながら見つけて、自分で選んで、自分で着こなしていくしかねえんだぜ。たとえそれが、誰かの期待とは違う色の服だったとしてもな」
茜の心の葛藤は、もう限界に近づいていた。
親の期待という見えない鎖と、自分の心の奥底からの小さな叫び。
その間で、彼女の心の羅針盤は激しく揺れ動き、どちらへ進めばいいのか、完全に見失いそうになっていた。
凛は、そんな茜の苦悩を、ただ黙って見守ることしかできないのだろうか。
そして、真の言葉は、茜を縛る見えない鎖を断ち切るための、どんな「カギ」となるのだろうか。