第22話 「風に乗る種と、心の棘 (後編)」
道真の「毒草の種」という言葉は、A子さんの心に深く、そして重く突き刺さった。
「私が蒔いた種だ…私が、なんとかしなきゃ…でも、どうすれば…」
その日から、A子さんは眠れない夜を過ごし、食事も喉を通らなくなった。
高橋B君(仮名)の苦しむ姿を遠巻きに見るたびに、罪悪感で胸が張り裂けそうになる。
しかし、自分の軽率な行動を告白する勇気は、どうしても湧いてこなかった。
そんなA子さんの異変に、橘凛と一条茜は気づいていた。
いつもおしゃべりで明るいA子さんが、最近は顔色も悪く、明らかに何かを思い悩んでいる様子だったからだ。
「A子、最近元気ないけど、何かあったの? 私たちでよかったら、話聞くよ」
放課後の教室で、凛と茜が心配そうに声をかけると、A子さんの瞳から、こらえきれなかった涙がぽろぽろと溢れ出した。
そして、震える声で、B君に関する噂の発端が自分であったこと、そして、そのことでB君を深く傷つけてしまったことへの後悔と恐怖を、二人に打ち明けたのだった。
凛と茜は、A子さんの告白に驚きつつも、彼女の罪悪感と苦しみを真摯に受け止めた。
「…辛かったね、A子。でも、正直に話してくれてありがとう」凛が優しく言う。
「一番辛いのはB君だけど、A子だってずっと苦しかったんでしょ? 一人で抱え込まないで、私たちにできることがあったら言って」
茜も力強く頷いた。
二人の温かい言葉に、A子さんはさらに涙を流したが、その涙は、少しだけ心の重荷が軽くなったような、そんな安堵の色を帯びていた。
「正直に話すのが一番だよ」
「私たちも一緒に行くから」
――凛と茜の言葉は、A子さんに小さな勇気を与えた。
一方、B君は依然として心を閉ざし、学校を休みがちだった。
しかし、そんな彼のもとへも、心配した友人たちからの連絡や、山田先生からの励ましの言葉が、少しずつ届き始めていた。
そして、間接的にではあるが、真が以前A子さんに語った
「言葉はブーメラン」
「噂は毒草の種」
といった言葉も、B君の耳に入っていた。
それは、彼を傷つけた「言葉」というものの本質を、少しだけ客観的に捉えるきっかけを与えてくれたのかもしれない。
数日後、A子さんは、凛と茜に付き添われ、意を決してB君の家を訪ねた。
インターホンの前で何度も深呼吸を繰り返し、震える指でボタンを押す。
出てきたB君は、やつれた表情で、驚いたようにA子さんたちを見つめた。
リビングに通され、重苦しい沈黙が流れる中、A子さんは床に両手をつき、深々と頭を下げた。
「B君…本当に、本当にごめんなさい…! 私が…私が軽はずみに話したことが、あなたをこんなにも傷つけてしまうなんて…取り返しのつかないことをしてしまいました…本当に、ごめんなさい…!」
涙で言葉にならないながらも、A子さんは必死で謝罪の言葉を紡いだ。
その姿は、普段のお調子者の彼女からは想像もつかないほど、真摯で、痛々しいものだった。
B君は、A子さんの突然の告白と謝罪に、言葉を失った。怒り、不信感、悲しみ、そして驚き…。様々な感情が胸の中で渦巻き、唇を噛みしめる。
長い、長い沈黙が流れた。
その間、凛と茜は、ただ黙って二人を見守ることしかできなかった。
やがて、B君が、絞り出すような声で言った。
「…正直、まだ、すぐに許せるかどうかは分からない。すごく…辛かったから…」
その言葉に、A子さんの顔が絶望に歪む。
「でも…」
B君は続けた。
「こうして、正直に謝ってくれたこと…それは、少しだけ、救われた気がする。…もう、いいよ。これ以上、A子さんも苦しまないでほしい」
それは、完全な赦しや忘却ではないかもしれない。
けれど、B君が必死で差し出した、前に進むための一歩だった。
その言葉を聞いた瞬間、A子さんは顔を覆い、声を上げて泣き崩れた。
それは、後悔と安堵、そして感謝が入り混じった、心の底からの涙だった。
その場に、偶然にも(あるいは、凛たちが事前に相談していたのかもしれない)真が顔を出した。
彼は、涙を流すA子さんと、まだ少し硬い表情ながらも、どこか吹っ切れたようなB君を交互に見つめると、静かに言った。
「誰かを赦すってのはな、相手のためだけじゃなくて、実は自分自身の心を縛ってる重たい鎖を、解き放ってやることでもあるんだぜ。憎しみや不信感でいっぱいになった心じゃ、新しい優しい風も、なかなか入ってこねえからな」
そして、A子さんに向き直り、こう続けた。
「犯しちまった過ちは、残念ながら消すことはできねえ。でもな、その過ちから何を学んで、これからどう行動していくかで、その過ちの意味合いは、いくらでも変えていくことができる。誠意をもって、正直に向き合えば、きっと、その気持ちは相手にも伝わるはずだ」
数日後、B君は久しぶりに学校に姿を見せた。
まだ少しぎこちないところはあったが、クラスメイトたちは彼を温かく迎え入れた。
A子さんも、以前のような軽薄な噂話は一切口にしなくなり、言葉の一つ一つを大切にするようになった。
山田先生の提案で、クラスでは「言葉の責任と、情報との向き合い方」というテーマで、短いディスカッションが行われた。
生徒たちは、この一件を通じて学んだことを、それぞれの言葉で真剣に語り合った。
それは、2年B組の生徒たちが、また一つ大きな壁を乗り越え、より成熟した信頼関係を築き上げた証だった。
雨降って地固まる、とはよく言ったものだ。
教室には、以前よりもずっと深く、そして優しい絆が育まれているように感じられた。
真は、そんなクラスの様子を、いつものように少し離れた場所から見守りながら、小さく呟いた。
「人間ってのは、間違う生き物だ。でも、間違った後にどうするか、そして、その間違いをどう受け止めて、前に進むかで、その人の本当の価値ってもんが決まるのかもしんねえな。そして、その間違いを赦せる心を持つことも、同じくらい、いや、もっと大事なことなのかもしれないぜ」
凛は、真の言葉の奥深さと、クラスメイトたちの心の成長に、静かな感動を覚えていた。
そして、彼らの前には、また新たな日常と、そこで生まれるであろう様々な出来事が、静かにその訪れを待っていた。