第20話 「見えないタスキと、繋がる笑顔 (後編)」
小林トメさんの突然の涙に、2年B組の生徒たちは一瞬言葉を失った。
しかし、道真がいつも口にする「まずは相手の心に耳を澄ませてみる」という言葉を思い出したかのように、彼らは戸惑いながらも、トメさんのそばに寄り添い始めた。
橘凛がそっとハンカチを差し出し、一条茜が優しく背中をさする。
中村健太や鈴木遥も、いつもの賑やかさを潜め、心配そうにトメさんを見守っていた。
その中で、以前自分も絵を描くことへの恐怖と向き合った経験を持つ小野寺静香が、震える声で、しかし勇気を出してトメさんに話しかけた。
「あの…トメさん…。私も…絵を描くのが、すごく怖くなってしまったことがありました。自分の絵が、他の誰かと比べて全然ダメだって思って…筆を持つことすら、できなくなってしまって…」
静香の拙い、しかし心のこもった言葉は、トメさんの閉ざされた心の扉を、ほんの少しだけノックしたようだった。
トメさんは、涙で潤んだ瞳で静香を見つめ、か細い声でぽつり、ぽつりと自分の過去を語り始めた。
若い頃、誰よりも絵を描くことが好きだったこと。
しかし、あるコンクールで、心ない言葉によって深く傷つき、それ以来、大好きだった絵筆を握れなくなってしまったこと。
「才能がない」「時間の無駄だ」…そんな言葉が、何十年もの間、トメさんの心を縛り付けていたのだ。
その話を聞いた生徒たちの心に、強い共感と、そして何かせずにはいられないという思いが込み上げてきた。
「トメさん…もしよかったら、もう一度、絵を描いてみませんか?」
凛が、そっと提案した。茜もすぐにその意図を汲み取り、「そうだわ! 私たち、何か描けるもの、探してきます!」と、施設の人に相談しに駆け出した。
中村と遥は、トメさんが若い頃に好きだったという故郷の風景や、昔飼っていたという猫の話を、優しく聞き出しながら、彼女の心に寄り添った。
やがて、茜が施設の職員の方に借りてきたスケッチブックと、使い古された色鉛筆のセットを手に戻ってきた。
それは決して立派な画材ではなかったが、生徒たちの温かい気持ちが込められていた。
「トメさん…よかったら、これ、使ってください」
静香が、震える手でスケッチブックと色鉛筆をトメさんに差し出す。
トメさんは、その色鉛筆を、まるで懐かしい友に再会したかのように、愛おしそうに見つめた。
そして、何十年ぶりかに、その震える手で、一本の色鉛筆を握りしめたのだ。
最初は、ただ白い紙を前に戸惑っていたトメさんだったが、生徒たちの温かい眼差しに包まれるうち、ゆっくりと、おぼつかない手つきで線を一本、また一本と引き始めた。
それは、彼女の心の中にずっと大切にしまわれていた、故郷の山の稜線だったのかもしれない。
あるいは、若い頃に見た、美しい夕焼けの色だったのかもしれない。
描き進めるうちに、トメさんの表情は少しずつ変わっていった。
硬くこわばっていた顔の筋肉が緩み、その瞳には、かつて絵を描くことを心から楽しんでいた少女のような、生き生きとした輝きが戻ってきたのだ。
それは決して、技術的に上手な絵ではなかったかもしれない。
けれど、そこには、長年抑え込んできたトメさんの純粋な喜びと、解放された魂の息吹が、鮮やかに、そして力強く表現されていた。
描き終えた一枚の絵を胸に抱きしめ、トメさんは、生徒たち一人ひとりの顔を順番に見つめた。
そして、その目から、また涙が溢れ出した。
しかしそれは、先ほどまでの悲しみの涙ではなく、心の底から湧き出る、温かい感謝の涙だった。
「ありがとう…ありがとうねえ…。こんな気持ち、もう何十年も、本当に忘れてしまっていたよ…。みんなのおかげで、また…絵を描くことができた…」
その言葉に、生徒たちもまた、目頭を熱くせずにはいられなかった。
誰かのために、ほんの少し勇気を出して行動すること。
相手の心に寄り添い、その声に耳を傾けること。
その小さな一つ一つの積み重ねが、こんなにも大きな感動と、奇跡のような瞬間を生み出すのだということを、彼らは身をもって体験したのだ。
ボランティア活動が終わり、夕焼け空の下を帰路につく生徒たちの顔は、達成感と、そして心温まる感動で晴れやかに輝いていた。
「なんか、すげえいいことした気分だな!」中村がしみじみと言う。
「うん…人の心が繋がるって、こういうことなのかもね」凛も、静かに頷いた。
その時、いつものように少し離れた場所を歩いていた真が、夕焼けを指さして言った。
「人間ってのは、面白いもんだな。誰かのために何かをすることで、その誰かだけじゃなくて、自分自身も救われたり、今まで気づかなかった新しい自分に出会えたりする。それもまた、巡り巡って繋がっていく、面白い『縁』ってもんなんだぜ」
真の言葉は、今日の出来事を経験した生徒たちの心に、より一層深く染み渡った。
この日、彼らは、世代を超えた心の交流と、見返りを求めない行動がもたらす純粋な喜びという、何物にも代えがたい「心のカギ」を手に入れた。
そしてそのカギは、これから彼らが歩んでいく人生の様々な場面で、きっと温かい光を放ち続けるだろう。
学校に戻ると、教室の黒板には、誰かが書いた「言葉の責任」についての討論テーマが残されていた。
それは、また新たな人間関係の複雑さと、彼らが向き合うべき次の課題を予感させていた。