第18話 「隣の芝生と、名もなき花の種 (後編)」
道真の「自分だけの花」という言葉は、小野寺静香の心の中で、小さな種のようにゆっくりと温められていた。
「私にも、私だけの花があるんだろうか…」その問いは、今まで才能豊かなクラスメイト・望月彩音と自分を比べては落ち込むばかりだった静香の思考に、新しい風を吹き込み始めていた。
以前のように、ただ彩音の圧倒的な才能に打ちのめされるのではなく、静香は少しずつ、彩音の絵の「どこが魅力的なのか」「自分とは何が違うのか、そして自分には何があるのか」を、震える心で探求し始めた。
美術準備室の隅で、誰にも見られないように、小さなスケッチブックに自分の心に浮かんだ風景や感情の断片を、おそるおそる描き留める。
それはまだ、自信なさげな、頼りない線だったが、以前のような描くことへの恐怖感は、ほんの少しだけ和らいでいるようだった。
そんな静香の微かな変化を、橘凛や美術部の先輩である影山瑠璃は、温かい目で見守っていた。
「小野寺さん、最近、スケッチブックに向かってる時間が増えたみたいだね。何か、描きたいものが見つかったの?」
影山の優しい問いかけに、静香ははにかみながら小さく頷いた。
美術部の顧問の先生もまた、静香が以前描いた風景画の中にあった、彼女特有の繊細な光の捉え方や、どこか物語性を感じさせる構図の面白さを改めて指摘し、「君にしか描けない世界があるはずだ」と静かに励ました。
そして、意外なことに、あの望月彩音自身も、静香に声をかけてきたのだ。
「小野寺さんの絵って、すごく優しい色使いだよね。なんていうか、見てると心がホッとするんだ。私、ああいう柔らかい雰囲気、なかなか出せなくて…ちょっと羨ましいなって、前から思ってたんだ」
天才だと思っていた彩音からの、思いがけない言葉。
静香は驚きで目を見開いたが、同時に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
自分にも、誰かの心に届く何かがあるのかもしれない。
ある日の放課後、真は、美術室で一人、小さなキャンバスを前に思い悩んでいる静香を見つけた。
「よお、小野寺。なんか、すごい宝の地図見つけたけど、最初の暗号が解けなくて途方に暮れてる冒険家みてえな顔してんな」
「道先輩…」
静香は、少し困ったように微笑んだ。
「描きたいものはあるような気がするんですけど…上手く描ける自信がなくて…また、誰かと比べちゃいそうで…」
真は、静香の隣に腰を下ろすと、窓の外の夕焼け空を見上げながら言った。
「小野寺がさ、一番最初に『絵を描きたい!』って思った時って、誰かに褒められたいとか、誰かより上手くなりたいとか、そんなこと考えてたか? きっと、『わあ、綺麗だな』とか、『これ、描いてみたいな』とか、そういうドキドキワクワクする気持ちが、一番最初じゃなかったか?」
静香は、ハッとしたように真の顔を見た。
そうだ、最初はただ、描くことが楽しくて、夢中でクレヨンを握っていたはずだ。
「その『楽しい!』『描きたい!』って気持ちがさ、小野寺だけの、一番大事なコンパスなんだぜ。うまい下手とか、才能があるとかないとか、そんなもんは、後から誰かが勝手につけた値札みたいなもんだ。あんたが心から楽しんで、あんただけの気持ちを込めて描いたもんなら、それが一番の傑作だよ。誰が何と言おうとな」
真の言葉は、静香の心の奥底に眠っていた、純粋な創作への喜びを呼び覚ました。
その日から、静香の絵筆は変わった。
誰かと比べるのではなく、自分の心に正直に、描きたいものを、描きたいように描く。
それは、雨上がりの道端で見つけた名もなき小さな花だったり、夕焼けに染まる教室の窓だったり、誰かのふとした優しい笑顔だったりした。
技術的には未熟な部分もあるかもしれない。
けれど、彼女の描く一枚一枚の絵には、彼女だけの繊細な感性と、温かい眼差し、そして何よりも、描くことへの純粋な喜びが溢れていた。
その姿を、凛や影山、そして真は、言葉少なに見守っていた。
数週間後、校内で行われた小さな文化芸術展。そこに、静香の描いた一枚の絵が飾られた。
それは、雨上がりの通学路の片隅に、健気に咲く小さな紫色の花を描いた作品だった。
決して派手ではない、むしろ目立たないその絵は、しかし、見る者の心に静かに、そして深く染み渡るような、不思議な優しさと生命力に満ちていた。
「この絵…すごく、いいですね」
「なんだか、心が洗われるみたい…」
足を止めて絵に見入る生徒たちから、そんな声が漏れる。
彩音もまた、その絵の前に佇み、静香の手を取って言った。
「やっぱり、小野寺さんの絵、大好きだよ。私には絶対に描けない、あなただけの世界がある」
その言葉に、静香の瞳から、熱いものがとめどなく溢れ出した。
それは、劣等感の涙ではなく、自分の価値を信じることができた喜びと、誰かの心に自分の絵が届いたことへの感謝の涙だった。
その時の静香の笑顔は、まるで雨上がりの空にかかる虹のように、どこまでも澄んでいて、美しかった。
「な? 言ったろ」
いつの間にか隣にいた真が、静香にそっと声をかけた。
「あんただけの、他の誰にも真似できねえ、すげえ綺麗な花、ちゃんと咲いたじゃねえか」
静香は、涙で濡れた顔で、しかし最高の笑顔で、真に深く頷いた。
「才能」とは、誰かと比べて優劣を競うものではない。
それは、自分自身の中に眠る、名もなき花の種を見つけ、それを大切に育み、自分らしい花を咲かせることなのかもしれない。
そのことに、静香だけでなく、その場にいた多くの生徒たちが、静かに気づかされた瞬間だった。
そして、2年B組の日常は、また新たな物語のページをめくろうとしていた。
それは、修学旅行で深まった絆が試されるような出来事か、あるいは、一条茜と凛、そして真の関係に、さらなる変化をもたらす風が吹く予兆なのかもしれない。