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第17話 「隣の芝生と、名もなき花の種 (前編)」

体育祭の熱気も冷めやらぬ秋晴れの日々。


2年B組の教室は、少しずつ落ち着きを取り戻し、生徒たちはそれぞれの日常へと戻っていた。


道真みち まこと橘凛たちばな りん、そして一条茜いちじょう あかねの間に流れる空気も、体育祭での出来事を経て、以前とは少し違う、互いを認め合うような穏やかなものへと変化していた。


しかし、そんな平和な日常の中で、一人、心の奥に重たい影を抱えている生徒がいた。


美術部に所属する1年生の小野寺静香おのでら しずか


彼女は内向的で口数は少ないが、絵を描くことへの情熱は人一倍強く、真面目にコツコツと努力を続ける生徒だった。


そんな静香には、同じ美術部に、同学年でありながら圧倒的な画才を持つ、いわば「天才」と称される存在のクラスメイト、望月彩音もちづき あやねがいた。


彩音の描く絵は、色彩豊かで独創性に溢れ、見る者を惹きつける不思議な力があった。


静香も、彩音の才能を認め、尊敬していた。しかし同時に、自分と彩音との間に横たわる、埋めようのない才能の差に、日々打ちのめされてもいた。


「私は、あんな風には描けない…」


「いくら頑張っても、彩音ちゃんには敵わないんだ…」。


美術部の活動や、校内コンクールで彩音の作品が称賛されるのを見るたび、静香の心は劣等感と無力感でいっぱいになった。


大好きだったはずの絵を描くことが、いつしか苦痛になり、白いキャンバスを前にすると、手が震えて何も描けなくなってしまうことさえあった。


「どうせ私なんて…」


誰にも相談できず、一人で悶々と悩み続けるうちに、静香は次第に美術部へも顔を出さなくなり、その表情からはかつての輝きが失われていった。


凛や茜、そして同じ美術部の先輩である影山瑠璃かげやま るりは、そんな静香の元気のない様子や、彼女の作品が以前よりも精彩を欠いていることに気づき、心を痛めていた。


「小野寺さん、最近すごく悩んでるみたいで…なんだか、見てて辛くなるんです」


影山が、美術室の片隅で真にそっと打ち明けた。


真は、いつものように窓の外を眺めながら、静かに頷いた。


彼もまた、静香が抱える「才能」という名の重荷と、それによって見えなくなってしまっている彼女自身の輝きに気づいていた。


ある日の放課後、真は美術準備室で、一人、描きかけのキャンバスの前でうなだれている静香の姿を見つけた。


床には、くしゃくしゃに丸められたスケッチがいくつも転がっている。


「よお、小野寺。なんか、すげえ重たい石、一人でエッチラオッチラ背負い込んじまったみてえな、悲壮感漂う顔してんな」


真の飄々とした声に、静香はびくりと肩を揺らし、慌てて涙を拭った。


「…道先輩…なんでも、ありません」


「そうは見えねえけどな」


真は、静香の隣に無造作に置かれていた椅子に腰を下ろすと、彼女の描きかけの絵をじっと見つめた。


「誰かと自分を比べちまうのって、まあ、人間だから仕方ねえのかもしんねえけどさ、それって結構、自分で自分をがんじがらめにして、身動き取れなくしちまってるだけってことも、多いんだよな」


静香の瞳が、不安そうに揺れる。


「隣の家の芝生が、やけに青々として綺麗に見える時ってあるだろ? でもよ、それはもしかしたら、自分の家の庭に、まだ誰も気づいてない、名前もついてない、すっげえ珍しくて綺麗な花が、まさに今、咲こうとしてるのに気づいてねえからかもしんねえぜ」


「…でも」


静香の声は、か細く震えていた。


「望月さんは、本当にすごいんです…。私とは、持ってるものが、全然違うから…」


その言葉には、深い諦めと、才能への渇望が滲んでいた。


真は、静香のその痛切な思いを、黙って受け止めた。


そして、少し間を置いてから、穏やかな声で言った。


「あのさ、桜の花には桜の花だけの美しさがあって、向日葵には向日葵だけの太陽みたいな明るさがあって、道端に咲いてるタンポポにだって、誰にも負けないたくましさがあるだろ? みんな、それぞれ違うからこそ、それぞれが特別で、見てる俺たちも楽しいんじゃねえかな。無理して、他の花になろうとしなくても、小野寺は小野寺だけの、他の誰にも真似できねえような、すげえ綺麗な花を、ちゃんと咲かせられるはずだぜ」


真の言葉は、まるで優しい雨のように、乾いた静香の心に染み込んでいく。


「絵を描くのが好き、っていうその気持ちがさ、一番大事な、自分だけの花の種なんじゃねえの? 結果がどうとか、誰かと比べてどうとか、そういう余計な心配ばっかしてると、その大切な種に、ちゃんと水も光も届かなくなって、かえって綺麗な芽が出なくなっちまうこともある」


静香は、俯いたまま、真の言葉をじっと聞いていた。


長年、彼女の心を覆っていた分厚い劣等感の雲に、ほんの少しだけ、切れ間が見えたような気がした。


「自分だけの…花…?」


それは、まだか細い呟きだったが、そこには、今まで気づかなかった何かへの、小さな問いかけが込められていた。


真は、それ以上何も言わず、ただ静かに、描きかけのキャンバスと、その前に座る小さな背中を見守っていた。


この「名もなき花の種」は、いつか劣等感という硬い土を破り、美しい花を咲かせることができるのだろうか。


そして、真の言葉は、そのためのどんな「カギ」となるのだろうか。




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