第16話 「揺れる天秤と、万華鏡の恋心 (後編)」
道真の「万華鏡」という言葉は、一条茜の心に、美しいけれど捉えどころのない模様のように残り続けた。
「私のこの気持ちも、いつか変わってしまうのかな…」
「形に押し込めようとすると息苦しくなるって、どういうことだろう…」。
真の言葉の真意をもっと知りたくて、そして彼自身のことをもっと知りたくて、茜は再び真に話しかけた。
「ねえ、道君は…誰かを本気で好きになったこと、あるの? その時、どんな気持ちだった?」
それは、彼女の真っ直ぐな好奇心と、ほんの少しの不安が入り混じった問いかけだった。
一方、橘凛の心は、真と茜の親しげなやり取りを目にするたびに、重たい雲に覆われるようだった。
真への募る想いと、茜への嫉妬心。
そして、そんな自分をコントロールできないことへの自己嫌悪。
「どうして私は、茜さんみたいに素直に、積極的にいけないんだろう…」
「道君は、やっぱり茜さんの方が…」。
以前、真が他のクラスメイトに語っていた「思い込みフィルター」や「ありのままに見ること」という言葉を思い出しては、自分のこの黒い感情も客観的に見つめようと努力するのだが、渦巻く想いはなかなか静まってくれなかった。
文化祭や体育祭の準備が本格化すると、クラス全体が活気に満ち、実行委員や各係の仕事で、真、凛、茜が一緒に行動する機会も自然と増えていった。
大きな看板を三人で運んだり、企画会議で意見をぶつけ合ったり、時には作業が深夜に及び、疲れ果てて一緒にため息をついたり…。
そんな共同作業の中で、彼らは否応なくお互いの新たな一面を発見することになる。
凛の、周りをまとめ上げる確かなリーダーシップと、細やかな気配り。
茜の、華やかな外見からは想像もつかないような体力と、一度決めたことを最後までやり遂げる粘り強さ。
そして真の、どんな時でもユーモアを忘れず、さりげない一言で場の空気を和ませたり、的確なアドバイスで問題を解決したりする、不思議な存在感。
ある日の放課後、体育祭で使う応援グッズのデザインについて、茜と凛の意見が真っ二つに割れた。
お互いに譲らず、教室にはピリピリとした空気が流れる。見かねた真が、いつものように飄々とした口調で割って入った。
「ま、どっちのデザインも、それぞれの良さがあって、甲乙つけがたいってやつだな。でもよ、『好き』って一言で言っても、いろんな色や形があるんだろうな。例えば、友達として『こいつ、最高だぜ!』って思う気持ちも『好き』だし、夕焼け空見て『うわー、綺麗だなー』って心が震えるのも、ある意味『好き』だろ? 特定の誰かにドキドキしたり、胸が苦しくなったりするだけが、『好き』の全部じゃねえのかもしんねえぜ」
そして、少し悪戯っぽく笑って続けた。
「それに、人の心なんて、明日の天気予報より当てにならねえもんだ。今日、大嵐みてえに『絶対これじゃなきゃダメだ!』って荒れ狂ってる気持ちも、明日になったらコロッと変わって、『あれ?なんであんなにこだわってたんだっけ?』なんて、カラッと晴れちゃってるかもしんねえ。だからさ、今の自分の気持ちに正直でいるのはめちゃくちゃ大事だけど、その気持ちが永遠に変わらないって思い込むのも、またちょっと違うのかもしんねえな」
真の言葉は、茜と凛の心に、それぞれ違う響き方で届いたようだった。
二人は顔を見合わせ、ふっと肩の力が抜けたように小さく笑うと、もう一度お互いのデザイン案の良いところを認め合い、それを組み合わせるという新しいアイデアに辿り着いた。
その出来事をきっかけに、凛の心にも小さな変化が訪れ始めていた。
茜への嫉妬心や、真への独占欲。
そんなネガティブな感情が湧き上がるたびに、以前は自己嫌悪に陥っていたが、
「あ、私、今、すごく焼きもち焼いてるな」
「道君のこと、本当に好きなんだな」
と、そんな自分を否定せずに、ただ静かに見つめることができるようになっていたのだ。
それは、真が教えてくれた
「今、ここにある自分に気づく」
という、ささやかな実践だったのかもしれない。
体育祭当日。
クラス対抗リレーで、アンカーの凛がゴール直前で転倒してしまうというアクシデントが起きた。
呆然とする凛に、真っ先に駆け寄ったのは茜だった。
「橘さん、大丈夫!? 立てる?」
茜は、自分のチームの勝敗も忘れ、凛の肩を貸して保健室まで付き添った。
その道すがら、茜がぽつりと言った。
「私ね、道君のこと、すごく素敵だと思う。でも、橘さんが道君のことを見る時の、あの真っ直ぐな瞳も、すごく綺麗だなって、前から思ってたんだ」
それは、ライバルからの、あまりにもストレートで、そして温かい言葉だった。
凛は、驚きと、そして込み上げてくる熱い思いに、言葉を失った。茜の笑顔は、以前の作り物めいたものではなく、心からの優しさに満ち溢れていた。
保健室で手当てを受けながら、凛は茜に尋ねた。
「一条さんは…道君のこと、どう思ってるの?」
茜は、少し遠くを見るような目をして、静かに答えた。
「うん、好きだよ。でもね、道君の言葉を聞いてたら、私のこの『好き』も、万華鏡みたいにいろんな形があるんだなって思ったの。憧れも、尊敬も、もっと知りたいっていう好奇心も、全部混ざってる。だから、無理に一つの形に決めなくてもいいのかなって。それに…」
茜は、悪戯っぽく微笑んで続けた。
「橘さんっていう、手強いけど素敵なライバルがいることも、なんだか悪くないなって思えてきたしね」
二人は顔を見合わせ、そしてどちらからともなく笑い合った。
その笑い声は、体育祭の喧騒を遠くに聞きながら、保健室の静かな空間に温かく響き渡った。
「恋」という名の万華鏡は、これからも彼女たちの心の中で、様々な美しい模様を描き続けるだろう。
時には切なく、時には甘酸っぱく、そして時には、思いもよらない輝きを放ちながら。
しかし、彼女たちはもう、その変化を恐れることなく、自分自身の心と、そして大切な人たちと、誠実に向き合っていく勇気を持っている。
道真は、そんな二人の成長を、少し離れた場所から、いつものように穏やかな笑顔で見守っていた。
彼の「八つのカギ」は、また一つ、新しい扉を開くための力を、彼女たちに与えたのかもしれない。
そして、学校生活は、また新たな悩みを抱える誰かのために、次の物語のページを静かにめくろうとしていた。