第12話 「熱意のボールと、見えないミット (後編)」
道真が投げかけた「熱意のボールと見えないミット」という比喩は、山田正平先生の心に重く、そして深く突き刺さった。
「自分の投げているボールは、本当に木下が受け取れるものだったのだろうか?」「良かれと思って、という言葉の裏で、彼の心を無視していなかっただろうか?」
その自問自答は、山田先生の指導に対する考え方を根底から揺るがし始めていた。
それからというもの、山田先生の木下に対する接し方は、少しずつ変化していった。
以前のように頭ごなしに叱りつけるのではなく、まず木下の行動や表情をじっと観察するようになった。
そして、他の生徒たち、特にクラス委員の橘凛や、木下と比較的親しい中村健太などに、それとなく木下の普段の様子や興味のあることなどを尋ねるようになった。
その姿は、まるで手探りで新しいキャッチボールの相手を探すピッチャーのようだった。
一方の木下もまた、真の「心のシャッター」という言葉が頭の片隅に引っかかっていた。
そして何より、最近の山田先生の様子の変化に、どこか戸惑いを覚えていた。
以前のようにガミガミと注意されることが減り、代わりに遠くから自分を見守っているような、それでいて何かを問いかけてくるような視線を感じるようになったのだ。
「…本当に、あの先生、俺のこと心配してんのか…?」
長年の大人への不信感から、すぐにはその変化を素直に受け止められない。
しかし、彼の頑なな心の壁も、ほんの少しだけ、音を立てて軋み始めていた。
そんな二人の微妙な変化を、凛は敏感に感じ取っていた。
そして、何とか二人の間の溝を埋めることはできないかと、文化祭の準備が本格化する中で、一つの機会を思いついた。
クラスの出し物である「体験型ミステリーカフェ」の重要な小道具の一つに、少し複雑な仕掛けが必要なものがあったのだ。
手先が器用で、実は絵や工作が得意だという噂のあった木下に、凛は山田先生を通じて、その製作を依頼してみることにしたのだ。
「山田先生、あの…文化祭の小道具のことで、木下君に相談したいことがあるんですが…」
山田先生は一瞬驚いた顔をしたが、凛の意図を察し、静かに頷いた。
放課後の教室。山田先生は、少し緊張した面持ちで木下に声をかけた。
「木下…ちょっといいか。文化祭のことで、お前に頼みたいことがあるんだが…」
木下は、いつものようにぶっきらぼうな態度で「…なんすか」と答えたが、山田先生が差し出した小道具の設計図と、凛からの「木下君のセンスに期待してる!」というメッセージを見て、わずかに目を見開いた。
それは、彼が今まで教師から向けられたことのない種類の、信頼と期待の眼差しだった。
最初は渋々だった木下も、いざ製作に取り掛かると、持ち前の器用さと集中力を発揮し始めた。
山田先生は、口出しをしたい気持ちをぐっとこらえ、ただ黙って木下の作業を見守り、必要な時にはそっと手助けをするに留めた。
共通の目的に向かって黙々と作業をする中で、二人の間には、以前とは違う、かすかな空気の流れが生まれ始めていた。
ある日の作業中、木下がポツリと呟いた。
「…先生ってさ、なんでそんなに、俺のこと気にかけるんすか。どうせ俺なんか、問題児で、迷惑なだけでしょう」
その言葉には、長年彼が抱えてきたであろう寂しさと、諦めのような響きが込められていた。
山田先生は、手を止め、木下の目をまっすぐに見つめた。
「…迷惑だなんて、思ったことは一度もない。ただ…ただ、お前が持ってる良いところや可能性を、お前自身が気づかずに、腐らせてしまうのが、俺は…教師として、一人の大人として、すごく悔しかったんだ」
それは、山田先生の心の奥底からの、飾り気のない本音だった。
「俺のやり方は、不器用で、一方的だったかもしれない。お前の気持ちを、ちゃんと聞こうとしていなかった…。本当に、すまなかった」
深々と頭を下げる山田先生の姿に、木下の瞳が大きく揺れた。
今まで反発しか感じなかった教師の、初めて見る弱さと、そして自分に向けられた真摯な思い。
それが、木下の心の奥底に眠っていた感情を激しく揺さぶった。
「…俺の方こそ…ずっと、先生の言葉、ちゃんと聞こうとしなくて…悪態ばっかついて…ごめんなさい…」
木下の声は震え、その目からは、こらえきれない涙が溢れ出した。
それは、頑なだった心の氷が溶け出し、素直な感情が流れ出した証の涙だった。
山田先生もまた、目頭を押さえながら、何度も頷いた。
その光景を、少し離れた場所から、凛と真、そして数人のクラスメイトたちが、息をのんで見守っていた。
教室には、夕焼けの赤い光が差し込み、二人の涙をきらきらと照らし出している。
それは、教師と生徒という立場を超えた、一人の人間と一人の人間が、心から理解し合った瞬間の、何よりも美しい光景だった。
数日後、山田先生の授業を受ける木下の姿は、以前とは明らかに違っていた。
まだ少しぶっきらぼうな態度は残っているものの、授業を真面目に聞き、時折、山田先生の問いかけに、照れながらも自分の言葉で答えようとするようになった。
山田先生もまた、以前のような一方的な厳しさは影を潜め、生徒一人ひとりの個性に合わせた、温かく、そしてユーモアのある指導をするようになっていた。
教室には、以前よりもずっと明るく、そして穏やかな空気が流れている。
「どんなにこじれた糸もさ」
真が、夕焼け空を見上げながら凛に呟いた。
「どっちかがほんの少しだけ、引っ張る方向を変えたり、ちょっとだけ緩めてみたりすりゃ、案外するするって解けるもんなんだな。大事なのは、諦めねえことと、相手のミットをちゃんと見ようとすることだぜ、きっと」
凛は、真の言葉を噛み締めながら、大きく頷いた。
「良かれと思って」
という一方的な思いだけでは届かない。
相手の心に寄り添い、誠実に対話しようとすることの大切さ。
それを、2年B組の生徒たちは、また一つ、深く学んだのだった。
そして、彼らの前には、友情の形が試されるような、また新たな出来事が静かに近づいてきていた。