第11話 「熱意のボールと、見えないミット (前編)」
古都の雨音がまだ耳に残っているかのような、修学旅行の余韻も少しずつ薄れ始めた頃、2年B組の教室にはいつもの日常が戻ってきていた。
あの山道での小さな冒険は、生徒たちの心に確かな絆を刻み、クラスの雰囲気は以前にも増して和やかで、どこか一体感が漂っている。
道真は相変わらずマイペースを貫き、橘凛は、そんな真の姿を、以前よりもずっと自然な眼差しで見つめるようになっていた。
一条茜も、完璧な仮面を少しずつ外し、素顔の魅力を振りまき始めている。
しかし、学校という舞台の主役は生徒だけではない。
彼らを見守り、導く教師たちもまた、それぞれの思いや悩みを抱えている。
2年B組の副担任であり、現代文を担当する若手教師の山田正平先生は、最近、その表情に曇りが見えることが多くなっていた。
山田先生は新任から二年目。
理想に燃え、生徒一人ひとりの心に寄り添い、正しい道へと導きたいという熱意は人一倍強かったが、その真っ直ぐすぎる情熱が、時として生徒との間に見えない壁を作り出してしまうことがあった。
特に、クラスの中でも少しやんちゃで、大人への不信感を隠さない木下剛との関係は、山田先生にとって大きな悩みの種だった。
木下の服装の乱れや提出物の遅れを見つけるたび、山田先生は彼の将来を心から案じ、時には厳しい言葉で、時には他の生徒たちの前で、熱心に指導を繰り返した。
「木下のためなんだ」
「ここで甘やかしてはいけない」
という一心だった。
しかし、その熱い思いは、残念ながら木下には全く届いていなかった。
「また山田の説教かよ、マジうぜぇ…」
「どうせ俺のことなんて、型にはめたいだけなんだろ」
木下は、山田先生の言葉を右から左へと受け流し、むしろ反発を強めるかのように、わざと態度を悪化させることさえあった。
授業中に堂々と居眠りをしたり、友人との私語を注意されてもニヤニヤと笑ってごまかしたり…。
そんな木下の姿を見るたび、山田先生の眉間の皺は深くなり、その心は焦燥感に駆られていた。
他の生徒たちも、そんな二人のギスギスした関係に気づいていた。
山田先生が生徒を思う気持ちは痛いほど伝わってくる。
けれど、木下君に対するあの接し方は、まるで硬いボールを無理やり狭いミットに押し込もうとしているようで、見ていてハラハラする。
凛もまた、クラス委員として、そして二人の間に立つ一人の生徒として、どうすればこの悪循環を断ち切れるのかと、胸を痛めていた。
山田先生自身も、自分の指導力不足に打ちのめされそうになっていた。
「良かれと思って、全身全霊でぶつかっているのに、なぜ木下にはこの思いが伝わらないんだ…」
「どうすれば、あいつは本当の意味で分かってくれるんだろう…」。
職員室で一人、山積みの書類を前に深いため息をつき、他のベテラン教師に相談しても、
「最近の若い連中は難しいからな」
「あまり感情的にならない方がいいぞ」
といった、通り一遍のアドバイスしか得られない。
生徒たちの前では気丈に振る舞っていても、その心は日に日に疲弊し、授業の声にも以前のような力強さが失われつつあった。
「ねえ、道君」ある日の昼休み、凛が心配そうな顔で真に声をかけた。
「山田先生と木下君のことなんだけど…見てて、なんだかすごく切なくなるんだよね。お互い、きっと相手を傷つけたいわけじゃないと思うんだけど、どんどん溝が深まってる気がして…」
真は、いつものように購買で買ったあんパンをのんびりと頬張りながら、窓の外で一人、サッカーボールを無言で壁に蹴りつけている木下の姿に目をやった。
「ま、どっちも不器用なピッチャーとキャッチャーみたいなもんだな。投げたい球と、捕ってほしいミットが、全然違う方向向いてちゃ、いい音は鳴らねえよ」
その日の放課後。
真は、職員室で一人、生徒指導に関する分厚い本を広げ、難しい顔で唸っている山田先生を見かけた。
「山田先生、お疲れ様です。なんか、すごい渾身のストレート投げてるのに、キャッチャーが思いっきり変化球待ちで、しかも全然違うコースにミット構えてる、みたいな難解な試合でもしてるんすか?」
突然の真の言葉に、山田先生は驚いて顔を上げた。
「み、道君か…。いや、まあ…そんなところかもしれないな」
力なく笑う山田先生の顔には、深い疲労の色が浮かんでいる。
「『良かれと思って』っていう言葉は、結構なクセモンでしてねえ」真は、近くのパイプ椅子を引き寄せると、遠慮なく腰を下ろして続けた。「先生のその熱い思いっていう名の剛速球、もしかしたら木下にとっては、重すぎて捕れないのかもしれませんね。あるいは、見たこともないような変化球に見えちゃって、どう反応したらいいのか、さっぱり分からなくなってんのかもしれませんよ」
一方、その少し前。
真は、グラウンドの隅で一人、ふてくされたように地面を蹴っている木下にも、いつもの調子で話しかけていた。
「よお、木下。そんなとこで一人、地球に八つ当たりか? 地球もいい迷惑だぜ」
「…うるせえな、道。お前には関係ねえだろ」
「まあまあ、そうイライラすんなって。なあ木下、お前さ、山田先生のこと、そんなに目の敵にしなくてもいいんじゃねえの? あの先生、確かに不器用で、時々空回りもしてるけどさ、お前のこと、結構本気で心配してるように見えるぜ。じゃなきゃ、あんなに何度も何度も、お前に声をかけたり、頭悩ませたりしねえって」
木下は、何も言わずにそっぽを向いた。
その横顔は、どこか寂しそうにも見えた。
「相手の言葉の奥にある本当の気持ちってのは、なかなか見えにくいもんだよな。でもさ、最初から『見よう』としなきゃ、一生見えねえまんまだぜ。心のシャッター、ガラガラに閉めちまってたら、どんな優しい光だって、届きやしねえからな」
山田先生も、木下も、真の言葉にハッとしたように何かを考え込んでいた。
しかし、一度こじれてしまった信頼関係や、長年の思い込みというものは、そう簡単には解きほぐせない。
二人の間にある見えない壁は、依然として厚く、そして冷たいままだった。
凛は、そんな二人を見守りながら、どうすれば彼らの心が再び通じ合う日が来るのだろうかと、静かに思いを巡らせていた。
そして、真が次にどんな「心のカギ」を示すのか、かすかな期待を抱かずにはいられなかった。
この熱意のボールは、いつか木下のミットに、正しく収まる日が来るのだろうか。