第1話 「絡み合う糸と、一筋の涙 (前編)」
風はまだ春の香りを残しているものの、日差しは日増しに力を増し、生徒たちの額にはうっすらと汗が浮かぶ季節。
2年B組の教室では、文化祭の成功という大きな達成感を経て、どこかクラス全体が以前よりも逞しく、そして温かい空気に包まれているように感じられた。
道真は相変わらず飄々としており、橘凛は、そんな真を呆れ顔で見つつも、その瞳の奥には確かな信頼と、それ以上の何かが芽生え始めているのを自覚していた。
放課後のグラウンド。
サッカー部の練習風景は、しかし、どこか活気を欠いていた。
特に1年生の松井健太は、明らかに精彩を欠き、パス練習でも凡ミスを繰り返している。
その視線の先には、2年生でレギュラーの相田達也がいたが、健太は達也と目を合わせようともせず、露骨に避けているようだった。
以前は
「達也先輩!」
「健太!」
と呼び合い、自主練習も共にするほど仲の良かった二人だったが、今の彼らの間には冷たい溝が横たわっている。
原因は、先週末に行われた地区大会の準々決勝だった。
強豪校相手に善戦したものの、試合は1-2で惜敗。
そして、その決勝点を許すきっかけとなったのが、試合終盤、達也が中盤で相手にボールを奪われたことだった。
もちろん、サッカーはチームスポーツであり、たった一つのプレーが全ての敗因となるわけではない。
しかし、憧れの先輩のまさかのミスと、目の前で破れた全国大会への夢は、健太の純粋な心に深い傷と、やり場のない怒りを刻みつけていた。
試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、健太はグラウンドに崩れ落ち、声を上げて泣いた。
その涙は、悔しさだけではなかった。
信じていた先輩への、裏切られたような気持ちも混じっていたのかもしれない。
それ以来、健太は達也を無視し続けていた。
達也もまた、健太の態度と敗戦の責任に心を痛め、一人で苦悩を抱え込んでいるようだった。
部活動の雰囲気はみるみるうちに悪化し、他の部員たちも心配そうに二人を見守るしかなかった。
「ねえ、道君」
昼休み、凛が真にそっと話しかけた。
「サッカー部、最近なんだかギスギスしてるみたいなんだけど…特に、松井君と相田先輩の仲が…」
「ふーん、青春の蹉跌ってやつか。甘酸っぱくて、ちょっぴりしょっぱい、アレな」
真は購買で買った焼きそばパンを頬張りながら、いつものようにとぼけた返事をする。
「真面目に聞いてるの!」
「聞いてる聞いてる。ま、そういう時は、当人同士が気づかなきゃ、どうしようもねえことが多いけどな」
そう言いながらも、真の目は遠くグラウンドで一人、壁に向かってボールを蹴り続ける健太の姿を捉えていた。
その日の部活後、健太が一人でグラウンドの隅で居残り練習をしていると、真がひょっこり現れた。
手には、どこで手に入れたのか、冷えたスポーツドリンクを二本持っている。
「よお、松井。今日も熱心だな。そんなに悔しいのか? あの試合」
健太は、真の顔を見ると、苦虫を噛み潰したような表情で黙り込んだ。
「まあ、気持ちは分かるぜ。あと一歩だったもんな。でもよ」
真は健太の隣にどかっと腰を下ろし、一本のドリンクを差し出した。
「あの試合、本当に相田先輩一人のせいで負けたって、本気で思ってんのか?」
その言葉は、健太の心の最も痛い部分を、容赦なく抉り出した。
「…当たり前じゃないですか! あのパスミスさえなければ、俺たちは勝てたかもしれないのに…! 先輩のせいで、全部台無しになったんだ!」
健太の声は怒りと悔しさで震え、その目には再び涙が滲んでいた。
真は、健太の言葉を黙って聞いていたが、やがて静かに口を開いた。
「そっか。でもな、健太。一つの結果が出るまでにはさ、そりゃもう、目に見えることから見えないことまで、いーっぱいのモンが、まるで蜘蛛の巣の糸みたいに複雑に絡み合ってんだぜ」
真は、足元の砂に、指で複雑な模様を描き始める。
「相田先輩のあのプレーも、確かに一つの糸かもしれねえ。でも、その糸一本だけ引っ張ったって、それが蜘蛛の巣全体の形を決めてるわけじゃねえだろ? 他にも、相手チームの作戦とか、その日の天気とか、審判の判定とか、もしかしたら、健太、お前自身のちょっとした動きや声出しだって、回り回って何かに影響してたかもしれねえんだぜ」
健太は、俯いたまま真の言葉を聞いていた。
反発したい気持ちと、どこかで真の言うことにも一理あるかもしれないと感じる気持ちが、心の中でせめぎ合っていた。
「誰か一人のせいで全部ダメになるなんて、そんな単純な話、この世には案外少ないのかもしんねえな」
真はそう言うと、健太の隣に置いたスポーツドリンクの蓋をカチリと開けた。
「ま、頭冷やして、もう一回よーく考えてみろよ。本当にそうだったのか、ってな」
真はそれだけ言うと、もう一本のドリンクを手に、今度は一人で黙々とシュート練習をしている達也の方へと歩いて行った。
残された健太は、真が置いていったドリンクを握りしめたまま、夕焼けに染まるグラウンドで一人、動けずにいた。
真の言葉が、まるで石を投げ込まれた水面のように、彼の心に静かな波紋を広げ始めていた。
(本当に…先輩だけのせいじゃ、なかったのか…?)
しかし、一度信じ込んだ「事実」と、込み上げてくる悔しさを、そう簡単には手放せない。
健太の心の葛藤は、まだ始まったばかりだった。