婚約者とその想い人、そして私
私は伯爵令嬢だった。
とはいえ養子だったが、お金も自由も人望もある程度は得ていて、何不自由ない生活を送っていた。子爵令息である婚約者もいる。もう既に破棄されているのだけれど。しかし、あの書類が然るべき場所へ届けられるまで、私はあとほんの少しだけ彼の婚約者である。
なぜこんなことになってしまったのか。そんなことは私と彼が一番よく知っているというのに、いつまで経っても実感がない。ただ思い出が色褪せていくのを感じながら、その余韻に浸っていた。
私と彼が出会ったのは僅か六歳の頃である。
「はじめまして」
茶葉のような色をした髪と目を無邪気に動かした彼に、優しくそう言われたことを覚えている。会ったばかりの彼は他にも、私のくすんだ灰のような髪の色を綺麗だと言ったり、無機質な漆黒の瞳を見ても笑わなかったりと、穏やかで優しかった。そう、優しかったのである。しかし彼は私に恋をしていなかったし、私だってそうだった。
まだまだ幼いと言える年齢であったが、貴族にとっては熟した林檎。自由に動き回れないうちから婚約を決めておくのは当たり前のことであり、私たちもそうだった。私たちにとって互いは誰よりも信頼するべき第二の家族であり、そうなるように仕向けられていたのだ。
夫婦でやっていくための絆を──と母は言ったが、私と彼を結びつけたのは絆や愛ではなく、重く長い鎖と、愛の代わりに私たちの体に染みこんだ慣れだった。
しかし大きな亀裂はなかった筈だ。互いに冷め切った、しかしどこか放って置けないという、義理の弟や妹に対するような態度をとっていた。最低限の接触は怠らなかったし、互いに家のためにと助け合った。私たちは運命ですらなかったけれど、互いを嫌っているわけでもなく、ただ少し触れ合いのある他人であったのだ。
「会いたかったよ」
その言葉は会う度に私の脳へ注がれた。酷く冷たく、しかし気遣うような色のある声。愛しているだとか、恋しいだとか、そういったことではないし、彼が私をそういう目で見ることはない。しかし彼は私を突き放さなかった。少しではあるが、私のことを知ろうとしていた。だから私もその度に「ええ、私も」と微笑み、彼にほんの少しの善意を返した。
彼は私を否定したことがない。私たちは喧嘩すらしたことがなかった。そのことに気付いたのはつい最近である。私の前では仮面と素の間であるような薄い笑顔を浮かべていた彼。最近は会うことをやめているが、淡い表情は記憶に溶けていて、ほんのりとなら思い出すことができた。
彼は私への贈り物に花束を好んでいた。大きな夜会が近付けば宝石やドレス、装飾品も贈ってくれていたが、それよりも頻度が多かったと思う。贈られてくる度に花の名を確認し、侍女に花言葉を尋ねたものだ。彼の贈る花にはどれも情熱的な意味があって、しかしそのどれもが彼の想いと反していた。
私は彼に尽くされる度、それと同じだけの言葉と贈り物を返した。オルゴールやハンカチーフ、彼が好きだという控えめな香りの香水など、シンプルで目立たない物であったけれど。少なくとも私の前では喜んだ振りをし、会う度に使ってくれていた。だから私も届けられた花を長く保たせる努力をし、枯れそうになれば押し花の栞やドライフラワーとして形に残した。
私たちは社交界でも穏やかに恋人を演じて見せた。招待されたパーティーでは最初のダンスを必ず二人で踊り、誰かと談笑する時にも適度な頻度で互いの名前を出す。そうしていくうちに、私と彼は清いほどに白い二人の関係をよりよく見せるのが得意になっていた。誰かの前で彼の名前を出すときに頬を赤く染めることも、家族の前で渡された彼からの手紙を大切そうに扱うことも、ダンスを踊るときに愛おしい目で彼を見つめることも、演技として自然と身に付いていった。彼も同様、誰かが見ている時には私のことを本当に愛しているかのように振る舞っている。
周りからの評価だけを気にしているのだと思われるかもしれないが、そうではない。私たちは互いに嘘を吐かないと決めていた。二人の時は想いや態度を偽らない、という約束。間に愛も何もない私たちだからこそ、せめて本心を分かり合おうと。だから二人きりの時、私たちは少し独特な空気感を共有していた。
そうして形作られた、歪で安定した私たちの関係。それは発展も衰退もせず、穏やかな波としてそこに存在していた。
しかし、私たちが十七となった頃。定期的に開いている彼との茶会の場で、私たちの隙間に亀裂が走り始める。
「会いたかったよ」
いつものようにその言葉を注ぎはしたものの、その横にはとある男爵令嬢を連れていた。男爵とはいえ、田舎の方に領地を持つ小さな家。
「あら、その方は」
私が尋ねようとすると、彼は微笑んで彼女を私に紹介した。淡々とした響きで、友人だと。その前の茶会で今度は友人を連れて行きたいと言われていたのを思い出したのだが、私はその時、彼の言う友人が男性だとばかり思っていたので、とても驚いた顔をしていたのだと思う。
「三ヶ月ほど前に街でたまたま会ってね。そこから友人としての付き合いが」
友人。彼は嘘を吐いていないようだった。しかしそれは彼女との関係の話であり、彼の視線と声色はまた違う色を持っていた。彼は私に心からは向けたことのない、熱っぽい目で彼女を見ていたのだ。しかし、彼女に惹かれるのは無理もない。そう思えるほど、私は彼女より大きく劣っていて──私がと言うよりも、彼女が異常なほどに甘く可憐な少女であったのだ。
肩より上でカールされたハニーブロンドの髪に若草色の優しい瞳を持ち、顔立ちは幼く、華奢な体。年は私たちよりも二つ下だという。
「人見知りだと言うから、立っている間は私の後ろにいることを許してくれないか」
いつの間にか、彼女は恥ずかしそうに彼の後ろに隠れていた。耳や頬を熱くさせているが、紅の塗られた唇は少し吊り上げられているようにも見えるから、少しは優越感を感じているのだろうと呆れながらに思い、目を伏せる。なるほど、彼女も彼を好いているのだ、と。
「そうなのね」
様々な想いを含みながらそう返した時、彼にはその意味が届いていなかった。
茶会が終わった後に問い詰めてみれば、彼が「本当にただの友人だよ」と誤魔化すように苦笑したのをよく覚えている。
他に想い人がいるというのならそれで構わないと思っていた。だってこれは政略結婚。私たちには愛とは違う類いの糸が掛かっていると、共に人生を歩いて行く相手としてならばこれ以上ないほどに強く結ばれていると思っていたから。複雑な心境ではあったが、痛みや淋しさ、哀しみを感じることはなかった。
それから一月もしないうちに、婚約者のいる子爵令息と男爵令嬢の熱い恋模様の噂はあっという間に広まった。彼らは友人という体で過ごしているが、私を含め周りにはそう見えなかったらしい。
その頃は夜会でもその男爵令嬢と居合わせることが多くなり、その度に彼らは秘密を含んだ笑顔を浮かべ、二人だけの世界に入って行くのだ。置き去りにされながら盛り上がる会話に耐えられなくなり、私は夜会の度にバルコニーや空いている客室へ避難するようになった。
「彼が君を幸せにしてくれると思うのか?」
いつも通り逃げてきたバルコニーに現れてそう言ったのは、もう長い付き合いになる友人だった。とはいえ令嬢ではなく公爵令息であるのだが、彼も私と同じような境遇であったのだ。柔らかそうな黄金色の細い髪に弁柄色の瞳を持つこの友人は、つい先日婚約者の令嬢に失踪されたばかりなのである。正しくは駆け落ち。庶民の青年と恋に落ち、全てを捨ててどこかへ消えたのだと。
幼い頃からの仲であるし、今回のことで彼とは少し話しやすくなっていたのかもしれない。だから私はその友人の問いに正直に答えていた。
「ええ」
渇ききった答え。
「恋人と夫婦は違うでしょう」
と、私は確かにそう答えた。その裏では正直なところ、婚約を解消してもいいのでは、とも思っていた。子爵令息と田舎の男爵令嬢。私という壁がなければ、釣り合わないということもない。何よりこの鎖に囲われた社会の中で愛する人を見つけられるということはとても幸運なことだったから。彼が申し出ればすぐにでも解放してあげることができるのだと。
しかし彼はそれを望んでいなかった。恋と愛、結婚は別物だと割り切っていたし、だから彼は彼女を想うこと以外には何もしていなかった。彼女に特別な贈り物をしたり、夜会でエスコートをしたり、想いを伝えたり、そういったことを全く。反対に私への贈り物や手紙は全く途絶えない。結婚するのだと、私と同じように彼だって覚悟していたのだ。
だが、彼女の方は少し違っていた。きっと彼の想いを知っていたのだろう。隙あらば腕を絡めたり、彼にブローチを贈ったり、積極的に話し掛けに行ったりと、目立つ行動。噂の火も、そんな彼女から発生していた。
「君は彼らのことを見逃したいようだね。しかし、彼にそこまでの価値はあるのか? 好きなわけでもないんだろう」
友人は「理解できないな」と首を傾げていた。
「あなたこそ、あの元婚約者のこと好きだった? そうは見えなかったけれど」
私はそうやって返事を濁した。もはや何のためにそうしているのか、自分ですら分からなかったから。
「大事にはしていたさ。少なくとも彼女以外は見ないようにしていた」
友人も私と同じように冷め切った表情をしていた。しかし貴族同士の婚約など、そんなものだった。だから彼は幸運なのだ。そして彼女も。
しかし彼は誠実だった。初めて会った日の笑顔と同じように、どこまでも清かった。
「私と結婚したら、彼はあの子と離れてしまうわ」
彼の考えていることはある程度予想することができる。私は彼を知っていた。彼女よりも。それにははっきりと自信があった。結婚後もしくはそれ以前に、彼は彼女との縁を切るだろう。そして私に尽くそうとする。自分の想いに蓋をして。
「いいことじゃないか」
私が哀しそうに目を伏せているのが気になったのか、友人はわざとらしくそう言った。
しかし私は黙っていることしかできなかった。本当なら彼らに問い詰めなくてはならない立場であるというのに、彼に痛いほど同情していた。自分は何も悪いことをしていないのに、彼に対して後ろめたい気持ちになっていたのだ。
はあ、と微かな溜息が聞こえる。
「なら君も、他の誰かに恋すればいい」
黙ったままの私の心を見透かしたとでもいうのか、友人は慈悲を込めた笑みを浮かべていた。
裏切られたようなものだというのに、私は彼を憎むことができなかった。他の誰かを愛することもできずに、ただ彼らの様子を窺うことしかできない状態。
そんな私を嘲笑うかのように、彼らは友人として親しげに会話し、微笑みを交わす。
噂が広まってから、彼女は開き直ったようによく茶会に顔を出した。というより、彼が呼んでいるという。流石に図々しいとは思ったが、彼が頬を緩めるのが分かっていたから何も言わなかった。
二人きりになる時間はとても少なくなり、代わりに三人で茶を飲む時間が大幅に増えた。勿論私は口を出さない。彼らのことを肯定しているわけではないが、彼が幸せだというなら話は別だった。結婚すれば、私は彼を縛ることになるのだと。だからそれまでは自由にしてあげるべきなのだと。
「まあ、使ってくださってるんですね」
彼女はよくそう言って微笑んだ。それは彼が贈ってくれたアクセサリーに対しての言葉だ。贈られた物を私がつけていく度に、一緒に選んだんですよ、オススメしてよかった、と意地の悪い笑みを浮かべる。彼は気付いていない、気付いてくれなかった。愛する人に夢中で、私のことなど眼中になく。だから彼女も調子に乗っていたのだろう。よく私を嘲笑うような目をしていた。
最初の頃はただの可愛らしい少女だという印象だったが、その頃になると全てが逆転していた。
事態がどんどん悪い方向へ進んでいるとようやく理解した頃には、彼も私を蔑ろにするようになっていた。彼は彼女への好意を周囲に曝け出すようになったのだ。私と話す時に見せていた微笑も、今では見せることすらなく。夜会でもダンスを踊らず、まずは彼女の元へ向かう。花束は秘かに彼女へ贈られるようになり、私の元へは届かなくなった。何が引き金になったのだろうと考えているうちにも、彼の態度は冷たくなっていく。せめてもと気遣うような温かさでさえ、もはや感じられない。彼はこれから共に人生を歩むかもしれない私よりも、彼女と距離を縮めることを選んだのだ。
そう。いつの間にか彼は変わってしまった。
「婚約を解消してしまえばいいだろう。愛し合っているんだ。あちらはきっと了承するさ。……君は甘過ぎる」
と、友人には会う度にそのようなことを言われていた気がする。
「いいや、違うね。甘いというより、諦めてしまっているのか」
その声は私の心に鋭く突き付けられ、痺れ続けた。諦めている。それは私の今の状態に最も近いと言えた。
「どうして彼を庇う? だって、彼は君を愛していないじゃないか。君だってそうだろう」
友人はそうやって肩を竦めるが、それは違う。私にだって戸惑いや痛みがあるのだ。その正体が何なのかさえ分からないけれど。
それは彼を失うには惜しいとでも言うように、私に囁き掛けていたのだった。
彼に恋い焦がれているわけでもなければ、愛おしく思っているわけでもない。しかし彼は昔から共に生きてきたパートナーであり、もはや家族のような──幼い頃から仕掛けられていた婚約という罠に、私はこれ以上ないほど引っ掛かってしまっていたのであった。
「すまない」
その茶会で私は久々に彼の顔を見たような気がしていていた。しかし彼は私の目を見ず、ただ頭を下げるだけ。私はその時、やっとこの時が来たのだと安堵したものの、同時に複雑に絡み合った痛みも感じていた。
「婚約を解消したいと?」
頭を下げるばかりの彼に代わって私がそう言った時、彼は確かに安堵の表情を見せていた。
「あの子と婚約するんでしょう。知ってるわ」
完全に肯定されるのかと思っていたのだが、彼は私の予想を遥かに超える理由を突き付け、もう一度すまないと頭を下げた。
「私の家が没落したんだ。数日後には爵位が剥奪される。領地もほとんどなくなる」
子爵には借金があったという。それは知っていた。何より、この婚約にはそれが絡んでいる筈だった。子爵家の持つ少額の借金を伯爵が受け持つ代わりに、それぞれの息子と娘と結婚させると。しかし子爵は金遣いが荒く、それからも膨大な借金を積み重ねていたらしい。王族からも目を付けられ、更には子爵による不正も発覚。そのため爵位を剥奪されるのだと。まだ父からは聞かされていない話だった。
「昨日纏まった話なんだ。まだ一部の者しか知らない」
彼はそれから、今まですまなかったと、何度も謝罪の言葉を口にしていた。彼女と婚約することはない、とも言っていた。
「君という婚約者がいながら、他の女性を追うだなんてこと」
彼は全てを謝罪した。彼女に惹かれたこと。二人きりで出掛けたこと。彼女に花を贈ったこと。私とダンスを踊らなかったこと。今までそれを謝らなかったこと。そして、私を愛せなかったことを。
私は彼を許すことも、罵倒することもしなかった。ただかつての彼に思いを馳せ、あの頃に戻れたらと願っていた。過去に戻れるならどんなにいいかと。
私と彼は互いを愛してはいなかった。しかし私たちは互いによく似ていた。哀れなほどに。私が彼から離れられなかったのは、それが理由なのかもしれない。
その時鼻を擽った香りには覚えがあった。私が贈った香水の香りを、彼は未だに纏わせていたのだった。
「これであの婚約は正式に解消された。気分はどうだ?」
廊下で会った友人は愉快な様子で言った。今日訪ねてくる予定だったなと思い出す。
「複雑ね」
書類が提出される時間はとうに過ぎていたので、確かに私はもう彼の婚約者ではなかった。
「今度はあなたと婚約させられるかもしれないの」
友人には未だに新しい婚約者がいなかった。令嬢たちは積極的に言い寄っているらしいが、傷心を言い訳にして逃げているらしい。本当は少しも傷付いてはいないらしいが。
しかしお互い一人になってしまったため、今度はそのように仕向けられるかもしれないと思っていた。実際に父はそれを企んでいるという。
「お互いまだ傷心中じゃないか」
「大袈裟ね。でも確かにそうだわ」
正直に言えばそこまで傷付いてはいないのだが、自分の魂が半分奪われてしまったかのような虚無感を感じていた。
「傷は癒えなくとも、新しく埋めることはできるのを知っているか?」
友人はあの時と同じように、慈悲に満ちた視線を向けた。
「いいのよ。別に」
婚約者のいない今、私は父に従うしかないのだ。私の結婚相手は父が決めるのだから。そこに私の意思はない。彼の時と同じように。
「楽しみにしているよ」
友人は変な笑みを浮かべ、「じゃあこれで」と私の横を通り過ぎて行く。
「なんだか疲れてしまったわ。とても」
幼い頃から互いに婚約者として生かされてきた筈だったけれど、私と彼が結婚することはなく。そして、想い合っていたはずの彼と彼女も結ばれなかった。
彼らは今頃どうしているのだろうか。一途に互いのことを想っているのだろうか。
私は伯爵令嬢だった。もはや私を守ってくれるのは、その肩書き以外にない。