3-09 ゴースト・バディ
二十世紀初頭。ロンドンを横断するテムズ川流域。そこで荷運びを生業とする少年カールは突如見知らぬ倉庫で目覚めた。状況から誘拐されたと気付いた彼は脱出を図るも、その途中で若い男性の死体を見つける。混乱のさなか、どこからか声が響き、その声に従う事で彼は辛くもその場を離れることに成功した。
自宅に戻ったカールは、先ほどの惨状を思い出し、警察に通報しようとする。しかしそれを誰もいないはずの部屋で呼び止める声があった。おびえるカールの目前に現れたのは、忘れようもない顔をした男だった。
殺人の冤罪を掛けられ追われる身となった少年が、自らの無実の罪を晴らす為、青年を殺した真犯人を突き止める為、奇妙なバディと共にロンドンを駆ける!
ずきりと、後頭部に走る痛みで少年カールは目覚めた。
「痛ぅ」
うめきながら瞼を開くと、薄暗い空間に積み重なった木箱とほこりっぽい天井が彼の目に写る。
「……え?」
一瞬目を疑ったのは、まるで木箱が天井に張り付いているように見えたからだった。その光景にカールはあ然としたが、まもなく足の違和感からその理由を知ることとなる。
「なんだよっ、これっ」
カールの身は、縄で逆さ吊りとなっており、足首のあたりできつく縛られていた。無論そんなことをした覚えのない彼は慌てて身もだえする。しかし、動いた身体につられて縄がゆらゆらと揺れるだけであり、ほどける様子は無かった。
「誰か! 助けてくれ!」
混乱し、声を上げるも、むなしく倉庫に響き渡るだけだった。眼下に見える天井近くに明かり取りの窓があったが、差し込む光は赤く焼けている。
あれが朝焼けならカールと同じ荷運びが近くを歩き回っていてもおかしくないが、夕日だとしたら絶望的だ。それに、声を上げ続ける事でこのような目に遭わせた何者かを呼び寄せかねない。そう彼は思い至り、慌てて口を閉ざした。
身体をなんとか引き上げ、縄をほどこうにも、無理な体勢では力の入りようがない。麻のシャツを汗だくにしながら抜け出そうとしたが、やがて力尽きて元の体勢に戻った。
「畜生……どうすれば」
無力感に苛まれたカールの両腕が、だらりと頭上に垂れ下がる。すると、その指先が何かに触れた。首を上げて先ほど天井と見間違えた床を見つめると存外に近く、そして先ほど触れた物が、差し込む光を反射して一部が鈍く光っていた。
「あれは……?」
それは、薄汚れた刃物の様だった。その柄に指が触れたのだ。カールは懸命に腕を伸ばしてそれを掴みとる。
「よし……うわっ」
眼前に持ってきたナイフを、カールは危うく取り落としそうになった。それもそのはずで、ナイフの刃には黒く変色した血がこびりついていたからだった。
触れてはならないものに触れてしまった。そう彼も考えたが、頼りになるのはこれしかない。息を整えた後、再び身を起こして足の縄の結び目を切り始めた。
幾度かの挑戦の後、ぷつりと縄の結び目が切れる。歓声を上げかけたカールは、そのまま床に身体を打ち付ける羽目になった。
「いってぇ……」
強く腰を打ったものの、幸い手に持っていたナイフがその身体を傷つける事は無かった。息を整え、ゆっくりと周りを見渡す。
「どこだ、ここ……?」
カールには見覚えの無い倉庫だった。彼が働くテムズ河流域にある倉庫のひとつだろうか。それなりに奥行きがあるようで、正面に目をこらすと乱雑に積み上げられた木箱越しに、閉ざされた大型扉の隙間から光が漏れているのが見える。彼は、倉庫の奥側で吊り下げられていたようだった。
――とにかく早く出ないと……
何者かに誘拐、監禁されていたことを思い出し、カールは息を潜めながら出口へと向かう。あまり持ちたくは無かったが、自衛の為ロープを切ったナイフもそのまま彼の手に収まっていた。木箱の合間を通り抜けながら、忍び足で歩く。
倉庫の中程まで何事も無く進み、カールはわずかに安堵して息をついた。すると、今までは埃っぽさしか感じなかった空気に異臭が混ざる。
――血の臭いだ。
酷く鼻につく血生臭さが、前方から強く漂ってくる。ぞわりと、カールの全身が総毛立った。この先に、何かがいる。
木箱の陰から、そろそろと顔を出す。ちょうど、明かりが差し込む先にそれはあった。
「なん、だ」
声に震えが混ざる。覗き込んだ先は、わずかに開けており、一人の男が仰向けになって倒れていた。カールよりは年かさで、二十そこそこに見える青年だ。整えられた金髪と鼻筋の通った顔つきをしている。仕立ての良いスーツに身を包んだ、英国紳士然とした美青年であったが、その腕は力なく広げられ、表情は正面をどこか驚いた顔で見つめたまま固まっていた。
「だ、大丈夫か……?」
おびえ、混乱しながらも、生来のお人好しからカールは青年に近づき声を掛ける。だが、その問いかけに彼が応えることは無く、ぴちゃりとかすかな水音が、カールの足下から響いた。
「ひっ」
おびただしい血液が、青年の身体からカールの足下にまで広がっていた。先ほど嗅いだ血臭さが、誰から生じたものなのか理解したカールは、短く悲鳴を上げて尻餅をつく。
「し、死んでる」
カールからは見えなかったが、青年は背中から出血して事切れたようだった。まるで、何かで刺された様な。
「っ!」
そこまで考えた時、カールは自身が握っていたものを思い出す。血がこびりついた大ぶりの刃物。もしや――
『両腕で顔を隠せ!』
恐ろしい想像に至りかけたカールに、突如頭に直接鳴り響くような声が届く。驚愕した彼であったが、不思議なことにその声に従って手が動いていた。
ナイフから手を離し、縮こまるように頭ごと腕で顔を覆う。すると頭上の当たりからバシャリという音と昼間のような閃光が走った。
『今だ! 出口に向かって走れ!』
「本当にっ、なんなんだよっ!」
再びどこからともなく響く声。混乱の極致に陥りながらも、カールは立ち上がり、出口へとかけだした。
暫くしてスライド式の扉が開けられ、落ちかけた夕日が倉庫の中程にまで届く。その光を避けるように、黒ずくめの影が倉庫の奥へと消えていった。
●
「っはぁ。はぁあ」
カールはアパートの自室に戻ると、そのまま扉を背にへたり込む。息は乱れ、どうやって家に帰ったかもあやふやな程だった。暫く肩で息をしていた彼であったが、日が落ちきり、部屋が小窓から差す月明かりに照らされ始めるとようやく身を起こした。
――あれはいったい、なんだったんだ。
吊されていた理由、若い男の死体、謎の声と閃光。どれをとってもカールには分からない事ばかりだった。だが、ただならぬ事態があの倉庫で起こっていた事は確かだ。
「人が、死んでいた……」
幻覚であって欲しいという淡い希望は、両手とシャツにかすかに残っていた血痕に砕かれる。ナイフで縄を切る際に、こびりついていた血が飛び散ったのだろう。
「警察に知らせ……」
『その格好でかね? やめておき給えよ』
警察に通報しよう、そう思い立ったカールに対して突然声が掛けられる。
「なっ」
慌ててカールが周囲を見渡すも、誰もいない。
『このままでは、君が犯人として捕まってしまうだろう。まずは落ち着き給え』
続けて掛けられた声も、はっきりと聞こえるのに、どこから届いたのか分からなかった。カールの背筋が凍る。どこか、部屋の温度も低くなったかのように感じられた。
「だ、誰だっ! ど、どこにいる」
精一杯の虚勢で発した誰何の声も、恐怖で尻すぼみになっていた。
『ここだ』
そう短く返答があり、彼の正面、アパートの路地に通じる壁の一部が青白くぼんやりと光る。そしてそこからぬるりと、わずかに発光する青年が現れた。
『初めまして……ではないか。君、私の顔を覚えているかな』
「あ、あんたは……」
カールは目を見開き、声を震わせる。忘れようはずも無かった。その顔は先ほど目に焼き付いた死体の青年そのものであった。





