第97話
────庭に咲いた紫陽花の色。去年よりも、青い色が深くなった気がする。
────近所に越してきた英国人夫婦が、焼きたてのスコーンをおすそわけしてくれた。
────明日、お返しに採れたての梅をおすそわけしよう。秘伝の梅酒レシピもそえて。
つづられていたのは、そんな他愛ない日常だった。
穏やかな祖母の声が、頭の中によみがえるようだ。
ぱらぱらとページを捲る梨花の手が、ピクリと止まる。
このあたりの数ページだけ、ところどころ濡れて乾いたように紙が波打っている。
梨花の両親が、亡くなった月の日記だ。
梨花には、あの日の記憶がぼんやりとしかない。
高校の部活で帰りが遅くなった日だった。
ちょうど最寄駅で友人と別れた直後。
おばあちゃんから連絡がきて、多分その後、両親が搬送されたけど病院へと一緒に向かったのだと思う。
あの日、両親は結婚記念日の旅行で県外に向かっていた。
高速道路で、居眠りトラックの追突事故に巻き込まれた。
ずいぶんと遠い道のりのはずだったけど、どうやって両親が運ばれた病院までたどり着いたのか、ショックでそれすら覚えていない。
おばあちゃんがずっと、梨花の手を握ってくれていたことしか覚えていない。
少し震える指で、ページをめくる。
────コハクに無理を言って、梨花と一緒に、あの子達の元へ連れて行ってもらう。
────間に合った。それでも、すぐにあの子は夫のもとへ、大毅さんのもとへ逝ってしまったけれど。
────最期に、娘の顔を見ることはできた。
梨花の胸がどくんと鳴った。
あの日の記憶が無いのは、ショックからだったのか、コハクの手によるものだったのか。
それはわからないけれど。
コハクが、絡んでいたのか。
大毅さん────梨花の父は即死だった。
あの子というのは梨花の母のことだろう。
母は、その日のうちに息を引き取ってしまったけれど。
それでも意識のあるうちにお母さんに会うことができたのは、絶対にコハクのおかげだ。
梨花はずいぶん昔から、コハクに何度も助けられていたのか……。
おばあちゃんの日記は、その日を境に様相をがらりと変えた。
────あの子を、親の死に目に会わせたのは私のエゴだったのかも。
────それでも。危篤だと聞いた時、絶対に会わせたいと願った。
────梨花の気持ちも考えた。
────まだ未成年の子供が、傷だらけの母の姿を、弱ってゆく最期の姿を、目に焼き付けることの残酷さを。
────でも、同時に、自分の娘の気持ちを────梨花の母の気持ちを思ってしまった。
────彼女は一目でも、最愛の娘に会いたいだろう。
────何よりも自分が守り育てたかったはずなのに。
────ひとりぼっちで置いて行ってしまう、愛する命を、あなたのかわりにそばで守る人間がいるという事を、あの子に知らせてあげたい。
────私は梨花の祖母である前に、娘の母だ。
自分の息が荒くなっていることに気づいて、日記を置いた。
深く息をして、ゆっくりと気持ちを落ちつかせる。
おばあちゃんの心の中を、初めて奥の奥までのぞいた気がする。
梨花の記憶にある気丈な背中の奥には、繊細な弱さが詰まっていたのだ。
最初から強かったわけじゃない。
梨花を守るために、梨花の母の想いを汲むために、自分を奮い立たせていたのだ。
息を整え、ふたたび日記を開く。
────梨花がずっと不安定だ。毎晩、眠りながら幼子のように声をあげて、父母を探して手を伸ばす。
────細くやせた体を抱きしめて、落ち着くまで背中をさすった。
────私は間違ったのだろうか。
────今日は満月。窓の外の月明かりがあまりにも明るくて、梨花のぷっくりと腫れたまぶたが目に焼きついた。
────梨花は赤ん坊のように背中を丸めて、泣きながらまた眠った。
────後悔はしていない。
────でも、申し訳なく思う。私のエゴが、傷を深くしてしまったのかもしれない。
────梨花は、両親の死を受け止められるだろうか。
────今日も涙を滲ませながら眠った。
────でも、起きている間は私に気を使っているのか、明るく振る舞う事が増えてきた。
────私はというと、梨花のいじらしさに泣きそうになる。
────情け無い。
────私が泣いていてはいけない。しっかり食べて、眠り、笑わなければ。
────涙する梨花を、可哀想だと哀れんで、泣いたりしない。絶対に。
────ただただ、愛するだけだ。あの子の分まで。
「会えてよかったよ、おばあちゃん。感謝しかないんだよ」
そう呟いた。心からの真実だ。
だから私は今、こうしてる。
あの日、母親の死に間に合うことができた意味。
おばあちゃんが一緒に来てくれて、そして────コハクがいてくれたから。
最後の日。お母さんに会えたんだ。
声にならない声だったけど、酸素マスクの中で、大好きよ、って。確かに言ってくれた。
お母さんの最後の言葉が聞けたのは、ふたりのおかげだったんだ。
梨花はおばあちゃんの日記を抱きしめた。
「ふたりがつないでくれた私の心があったから、今日、翔太を助けることができた」
考えたくはないけれど。
もし紅子さんに万が一のことがあった時、「もう少し早かったら」と、悔い嘆くことになっていたかもしれない。
梶田に、そんな思いをしてほしくはなかった。
「おばあちゃん。私も、後悔は、しないよ────」