第96話
「梨花ちゃん!」
玄関に入ると、物音を聞きつけたのだろうか、キョーコが半泣きで走ってきた。
勢いのまま、がばっ! と、梨花の体をだきすくめる。
「よかったぁー! 大家さんも心配してたんだよー! もし帰って来れなかったらどうしようかと思った」
「ただいま。心配かけました。────あっ、キョーコさん、濡れちゃう」
身動ぎして離れようとした梨花の体を、キョーコはさらに力を込めて抱きしめた。
体温だけではないあたたかさにくるまれて、梨花の肩から、余計な力がふっと抜ける。
ずいぶんと緊張、していたのだと、今になって気がつく。
「平気よ! でも梨花ちゃんは平気じゃないわね、早くお風呂!」
「あ、ありがとうございます」
キョーコの勢いにつれられて、廊下を進む。居間には大家さんの姿はなかった。誰の姿も。
そのまま無人の居間を過ぎて、個人部屋に連なる廊下へと入った時、梨花はそれを見つけてしまった。
「あれ……」
「うん、やっぱり例外はないみたい」
と、キョーコも呟く。
ふたりの目線は、同じ文字に吸いつけられていた。
梨花の部屋の扉に小さく浮き上がった、無機質な文字。
『退去勧告 来月末迄』
「へぇ、こんなふうになるシステムなんだ」
口から出た言葉の軽さに、梨花自身が驚いた。
さすがにもっとショックをうけるかなと思っていたのだけれど。
「大丈夫?」
梨花の顔を覗きこみ、うかがうように、キョーコが問う。
「平気です。うん、いや、寂しいですけど。後悔はないから。ひと月も猶予をもらえるなんて、むしろサービスが良いっていうか」
「そっか」
寂しそうに、キョーコが笑う。
「梨花ちゃんの緊急事態って事は聞いたの。でも詳しくは聞いてないから、あとでゆっくり聞かせてね」
「はい」
「時間があるうちに、送別会! しなきゃね。あっ、とりあえずはお風呂! もー、こんな冷えちゃってさ! あったまらないと!」
「ありがとうございます、あっ、私このあともう一度病院に────」
行こうと思ってて、と言う前に、梨花のスマホがなった。
────梶田からだ。
(紅子さん、大丈夫かな)
「もしもし」
『俺』
「うん」
『ばあちゃん、会えたよ。ありがとう』
「うん」
『まだ、意識はまだ戻ってないけど。ちゃんと、会えた。梨花のおかげ』
意識は戻っていない。
でも、生きているんだ。
その事実だけで、目頭がジンとあつくなる。
「うん」
耳の奥に届く梶田の声をさえぎりたくなくて、同じ相槌ばかりうってしまう。
ふぅ、と、梶田の息づかいが聞こえた。
一時の間のあと、彼は細い声で言った。
『今夜、ばあちゃんのそばにいられてよかった。本当にありがとう────』
「よかった」
よかった。本当によかった。
『あっ、いまは、家族しか面会はできないから。本当に、今日は俺1人で大丈夫だから。梨花は、ゆっくり休んでね』
「────わかった。明日、差し入れするね」
『ありがとう。でも本当、無理しないで』
「わかってる」
通話を切ったあと、キョーコと目があった。
キョーコが笑う。
「よかったね。ゆっくり、お風呂つかってらっしゃい」
「うん。ありがとうございます」
────なんだか大変な一日だったな。
濡れた髪を拭きながら、梨花がベッドに腰掛けると。
コトン
静まり返った部屋に響いた小さな音は、たしかに押し入れの中から聞こえた。
「コナ?」
コナからのメッセージだろうか。
不思議に思いながら押入れのふすまをひらく。
そこには、この間までなかったはずのものが現れていた。
コナ、────じゃ、ない。たぶん。
音の主とおぼしきものは、懐かしい、クッキー缶だった。
おばあちゃんが好きだった、バニラ味のクッキーの。
昔、おばあちゃんはよくこのクッキー缶を、物入れとして使っていた。
大事な手紙とか、ちょっとした小物とかを入れて。
梨花は胸のざわめきをおさえるように、ふぅ、と小さく息を吐く。
つ、と缶に触れた指先の、冷たい感触。
梨花は意を決して、その蓋を開けた。
少し軋んだ音をたてて、蓋が開く。
中にあったのは、ふるぼけた日記帳だ。
そっと手に取り、しおりのはさまれた場所を開く。
────この選択が合っていたのかはわからない。
そう綴ってある文字は、細くて、少し右上がりの癖がある。おばあちゃんの字だ。
(この日付────)
梨花がまだ10代の頃の、おばあちゃんの日記。
読んでも良いんだろうか。迷いながらも、目線は次へ次へと進んでいく。
もしかしたら、今この日記が現れたことが、おばあちゃんからのメッセージなのかもしれない。
その思いが、梨花に日記のページをめくらせてゆく。




