第95話
梨花たちを少し離れた場所から見守っていたコハクが、すっと近づいてきた。
彼はレインコートのフードを脱いで、白い髪をあらわにする。
「話は済んだか」
「あ、あれ? 君は」
コハクの顔と髪を見て、梶田が驚いたように目を開いた。
そういえば、コハクの写真を見たことがあったのだっけ────。
梨花が口を開こうとしたが、それよりも少し早く、コハクが言った。
「説明はあと、急ぐんだろ。騙されたと思ってついて来い」
有無を言わさぬコハク。体は小さいのに、につかわしくない迫力がある。
「あっ、はい」
梶田も何かを感じ取ったのか、素直に飲み込んだ。
「こっからは荒技だからな。目ぇ回すなよ」
人気のない物陰に移動し、コハクは壁に手を当てた。
壁がぐにゃりと曲がって、やがて大きな穴となった。
人ひとりが、ゆうゆうと通り抜けられるくらいの。
「おわっ?!」
目を白黒させる梶田の手を、ぎゅっと握る梨花。
「驚くと思うけど、大丈夫」
「マジで? マジか……」
困惑をなだめるように、ゆっくりと梶田の目を見て、梨花は言う。
「この為に来たの。私たち。紅子さんに会いに行こう。いま、すぐに。────私がコハクに、お願いしたの」
「お前ら人間の言う奇跡は、俺からしたら大したことじゃない。気にすんな」
と、横からぶっきらぼうに言うコハク。
ごくりと、喉を鳴らして、梶田は呟く。
「ここを通れば────ばあちゃんに、会えるんだね」
そして深々と頭を下げた。
「ありがとう」
コハクは片眉をあげて、踵をかえした。
「礼は後で良い。とりあえず、行くぞ」
言うが早いか。
ひょい、と。待つそぶりもなく、コハクは壁の歪みに飛び込んでしまった。
「行きましょう!」
ここは転移の先輩として、頼れるところをみせねば。
梨花は梶田の手をさらに強く握り、コハクに続いた。
すぐだった。
何度か瞬きをするくらいの時間。
ただひたすらに白い世界で、コハクの背中だけを追いかけた。
雨も風もない道のりは本当に短く終わりを告げた。
気づけば、梨花たちはまた雨の夜の中に飛び出していた。
近くの木の下に走り込み、あたりを見回す。
街灯の光を頼りに、記憶をたぐる。
────見覚えがある。
今日は雨のせいで人もいない。
会社からほど近い公園。梨花は自分の土地勘に仕事をしろとせっついた。
そうだ、ここは遊具があって、広い芝生もあって、少し奥には市民プールも。
そして、その裏が、確か────。
梨花は公園の木々の向こうに見える、大きな建物を見上げた。
雨の中でも、煌々と光るLEDの文字。
その病院の名前だ。
ここに、紅子が搬送されたはず。梶田からそう聞いていた。
「ここからは」
梨花の問いに、梶田は頷く。
「うん、自分で行くよ。ありがとう!」
「後で合流します。紅子さんに、会えなくても。そばにいたいです。私も」
「うん。状況をみて連絡する。でも、とりあえず一度帰って温まってね。ありがとう」
梨花にほほえんでから、梶田はコハクのほうに向き直った。
がばっ!
「コハク君も、ありがとう! 神さまみたいだったよ」
「お、おおん。いいってことよ」
大型犬に抱きつかれた小型犬みたいだ。
コハクは小さな体を居心地悪そうに身動ぎさせながら、そう答えた。
梶田はコハクの肩を持ったまま梨花の方をみる。
「本当は俺が送って行きたいんだけど。コハク君、梨花を頼みます」
「ああ。心配すんな」
◇
シェアハウスの玄関の前で、梨花は深く深く礼をした。
「ありがとう!」
「大したことじゃねーよ。俺にとってはな。梨花だろ、こっからが大変なのは」
と、コハクはシェアハウスを眺めて言った。
「この家は、感情じゃなくルールで動いてる。俺たちと違って、融通がきかねぇかんな」
「大丈夫」
梨花は笑った。
願いは叶った。その代償だったら、どんなことでも受け入れられる。
大切な人にしてあげたいと願った事を、自分で選べたのだ。
何もできず、手をこまねくだけではなく。
「────そっか」
コハクは犬のように身震いをして、ちいさなクシャミをした。
「うー、さむ。じゃ、行くわ」
「うん、本当にありがとう! お礼は、また」
「ばーか。どうやってだよ。俺はそんな軽く会える存在じゃねんだぞ、本来は。────元気で生きろな。それでいいさ。あいつも言ってたろ、早くあったまれ! 風邪ひいたら見舞いにも行けないぞ」




