第94話
コハクが勝手口から出ていく。
梨花はまだ通ったことのない、シェアハウスの勝手口。
ごくりとつばを飲んで、コハクの背中を追おうとする。
ピィ!
鋭い鳴き声に梨花が足を止めると、大家さんが梨花の靴を手渡してくれた。
慌てすぎて、裸足で行くところだった。
「ありがとう────!」
ピィ……!
梨花が靴を履き終わるのをまって、今度は自分の羽毛をいっぱい、梨花の手に乗せてきた大家さん。
「これ、お守りの……」
ピィ
大家さんの小さな黒い目が潤んでいる。
梨花はふわふわのからだをそっと抱きしめて、もう一度「ありがとう」と言った。
────ちゃんと帰ってこれますように。
その大家さんの思いが、必死さが、泣きたいくらいありがたかった。
ここに住めなくなっても良い。
つまり、皆とあえなくなっても良い。そう言ったに等しい梨花の選択、にも関わらず。
大家さんは、変わらず梨花のことを思ってくれている。
だからこそ、胸をはる。やるべきことをやる。自分のえらんだ気持ちに、嘘はつかない。
一歩踏み出すと、そこは広い畑だった。
馴染みのある野菜や、見たことのない果物。
旬も何も関係なく、四季折々の恵みが実っている不思議な畑。
その中を、コハクの背中を追って進む。
「ここだ」
コハクが足を止めたのは、小さな池のほとりだった。
鏡のように凪いだ水面を覗き込むと、キラキラと等間隔に並ぶ照明が見えた。
規則正しく引かれた白線と、そこに並ぶたくさんの車。
高速道路のサービスエリアだ。
「もうすぐここに着くだろ。ここでそいつを拾って、病院にとべばいい」
そう、コハクはなんでもないように言う。
一方の梨花は、自分がのぞんだことなのに、いざとなったら手が震えた。
────なんて説明しようか。
きっと驚くだろう。
気持ち悪がられるかもしれない。
ぐるぐると思考がまわる。
ああ、そうだ、翔太は、コハクの顔も知っている。
あの時なんて説明したんだっけ、コハクのこと……。
────パン!
突然、自らの頬をはたいた梨花に、コハクが目を丸くする。
「大丈夫か?」
「大丈夫。気合いをいれただけ」
迷うな。悩むな。そんな事は後でもできる。
今やる事を間違うな。
「もう大丈夫」
「そうか。これを着ておけな」
と、梨花に白いレインコートをくれた。
コハクはいつの間にか装着済みだ。
梨花も急いで袖に手を通す。
「準備ができたなら、俺の手をつかめ」
そう言って、コハクが手を差し出した。
梨花はしっかりと、その白い手を握った。
コハクと落ちるのは二度目だ。
そんな事を考えるくらいの余裕はあった。
飛び込んだ池は冷たくなく、濡れもしない。
少しの浮遊感ののち。
気がついた時には、サービスエリアの端っこ、植え込みの影に立っていた。
思ったよりも酷い雨風だ。建物の軒下に身を寄せるが、意味がないくらいに雨粒が吹き込んでくる。
「俺はここにいる。先に話を」
「わかった」
ちょうど、取り出した梨花のスマホが鳴った。
「もしもし」
「いまね、サービスエリアについたから。約束通り電話したよ」
疲れの滲む声。でも明るく振る舞おうとしている声。
梨花は胸の奥がきゅう、と縮むような思いを覚えた。
「うん。でね、驚かないで聞いてほしいんだけど、私もこのサービスエリアにいるの」
「────は? いやいや」
「電話ボックスの近く」
しばらくの沈黙。そして驚く声。梨花を見つけたのだろうか。
「え? 嘘、なんで。あぁもう、雨が邪魔! ────ちょっと待って!」
バタンという音の後、通話が切れた。
すぐに梶田が走ってきた。数秒のことなのに、傘の意味もないくらい濡れている。
「抱き、しめたいんだけど、俺びしょびしょだよね……」
背中を丸めて小さな声で言う。不謹慎だけれど、可愛すぎないか。
「私もびしょびしょ」
がばっ! と音がしそうな勢いで、梶田は梨花を抱きしめる。
「何がなんだかわからないけど、これ夢?」
梨花はその問いに答えられず、言葉に詰まった。
いっそ夢だったらよかった。
紅子さんが倒れたのも、夢だったら。
そんな複雑な気持ちが顔に出たのか、梨花の顔をのぞきこんだ梶田の表情が、ふと現実に戻ったように笑った。
寂しそうに、笑った。
「夢じゃないね」
「うん」
梨花は思わず叫んだ。自分からふっと離れそうな梶田の手を、ぎゅっと握って。
「夢じゃないよ! だから、紅子さんに会いに行こう!」




