第92話
まだ夕方にさしかかったばかりなのに、窓の外はどんよりと暗い。
窓を叩く雨の音が、どんどんと強くなる。
梨花は仕事の手を止めて、窓の外に目をやった。
「よく降るわね」
「沙月さん」
いつのまにか、沙月が両手に紙コップを持って、梨花のそばに立っていた。
「コーヒー淹れたけど、飲む?」
「いただきます。ありがとうございます」
受け取って、ひとくちすする。
コーヒーの香りと、ほのかな甘さが、座りっぱなしでこりかたまった体にしみる。
「今日は雨、止まなそうね」
「最近晴れが多かったから。これだけ続くの珍しいですね」
「愛知のほうは今夜から明日にかけて災害級の大雨だって。新幹線が運休かもって、出張のリスケしながら部長が嘆いてたわ。こっちの在来線はまだ止まらなそうだけど……。今日は早めに帰ったら?」
沙月の言葉に、梨花は仕事の進捗を思い浮かべた。
確かに、急ぎの案件はないし。
早く帰って、いつもより少し手の込んだ料理でもしようかな。
良い気分転換になりそうだ。
「そうですね。たまには定時で帰ろうかな」
「飲みに行くにもこれだけ降ってちゃあね。帰りが危ないしね。また今度誘うわ」
「うーん。傘の意味がないな」
駅までの道を歩きはじめてからまだ5分も経っていないのに、お気に入りのシフォンスカートは腿のあたりまで湿ってきている。
このまま電車に乗るのもなんだか億劫で、今日は近道で帰ろうかなぁと、シェアハウスへの「道」につながる路地の方向を見つめた。
この雨だ、皆、まわりなんて見ていないし。
たまには近道も良いよね。
さっと路地に逃げ込んで、ちょちょっと帰ってしまおう。
「そうしよっと」
行き先を変更して歩き出そうとした瞬間、目の前に黒い塊が転がり込んできた。
びっくりして足を止める梨花。
「わっ」
塊の正体は、飛び出してきた猫だった。
「猫」
猫は声に反応したように、梨花を見た。
「あっ、ごめんね」
こっちが、驚かせちゃったかな。
────ちりん、
首に鈴は見えないけど、猫が動くと音がする。
微かな音なのに、鈴の音は雨音に負けず梨花の耳にまっすぐ届いた。
(あれ?)
まるで、脳内に直接届いているような音。
(変だな。────あ)
────違和感が、もうひとつ。
この雨だ。
びしょ濡れのはずの猫の毛が、ふわふわと風になびいている。
怖くはない。でも、何かがおかしい。
────ポロンポロン────ポロンポロン
思考をたち切るように、梨花のスマホが音とともに震え出した。
黒猫はじっと梨花を見上げたあと、すぐに走り出してしまう。
「あっ、待って」
思わずそう声をかけたけれど、待ってくれるわけもなく。
まばたきする間に、黒猫は雨の街と同化して見えなくなった。
カバンの中で、スマホが震え続ける。
梨花は止まっていた足を動かした。
とりあえず雨宿りできる場所まで。それから折り返そう。
すぐ近くのスーパーの店先をお借りして、着信履歴を確認する。
知らない番号だった。
とりあえず、残っていた留守番電話を再生する。
ノイズがひどく、雨の音も相まって聞き取りにくい。
音量を最大にして、やっと聞き取れた言葉。
それでもやっぱり声は小さくて、確信はもてないけれど。
『────大丈夫────だからね』
そう言っている、気がする。
(え────)
ばくばくと、胸の奥が大きくなる。
落ち着けと自分にいいきかせながら、何度も繰り返し聴いてみる。
「おばあちゃん────?」
そんな気がした。
気のせい、ですますには、あまりにも。
落ちついた優しい低めのトーンが、とても。とても、祖母のそれに似ていて。
理解よりも先に、懐かしさが込み上げていた。
慌てて表示された番号にかけ直すけれど、
『おかけになった番号は現在使われておりません────』
無機質な音声だけが流れるだけだった。
「大丈夫って、なにが────?」
何を伝えようとしてくれたんだろう。
心配ごとがあったのだろうか。
梨花の頭の中は混乱したまま。
何度かけなおしても、その番号がつながることはなかった。