第9話
「なるほど、桜餅だと思っていた前提が、僕の思い込みだったのか……」
お昼休み。
近くの学校のチャイムが、聞こえる。
会社の屋上で、梶田とお弁当を食べながら、梨花は自分の考えを披露した。
その反応が、先の台詞だ。
梶田は自身の記憶を辿るように、考えこむ。
「たしかに最初は、お花の葉っぱのついたお餅と言われた気がします。だったら、桜餅だろうと思って……僕の早とちりのせいですね」
そう言って、天を仰ぐ。
梨花は頷く。
「まだ、わかりませんけどね? 可能性は、あるかと。紅子さんに、食べてもらう価値はありそうです」
そんなわけで、次の祝日ーー木曜日。
面会室に梶田と梨花が着いた時には、もう長机に紅子が座っていた。
「あら、翔さん。きてくれたのね」
梶田たちの姿をみつけて、紅子の顔が明るく輝いた。
旦那さんの面影を、重ねているのだろうか。
「今日、仕事休みだから」
「こんにちは」
笑顔で挨拶する梨花。
にっこりと微笑んで、紅子は言った。
「はじめまして。わたしは紅子」
「カヨです。はじめまして」
梨花はにっこりと挨拶をして、さっそくタッパーを取り出す。
「今日は、お土産があるんですよ」
タッパーの中には、椿餅が並んでいた。
梨花はタッパーの横に、椿の花をひとつ置いた。
一緒に持っていけという、大家さんからの計らいである。
葉っぱが違う以外は、道明寺タイプの桜餅とほぼ同じである。生地の色は、白にした。
思い出の中にもきっと積もっていたであろう、雪の色。
「あらぁ! 懐かしいわ」
明らかに、この間とは違う反応だった。
弾んだ声で、紅子が言う。
「ねぇ給仕さん。お茶をいただける?」
「お待ちくださいね」
通りがかりのスタッフさんが、ティーサーバーでお茶を淹れて持ってきてくれた。
「いただきます」
紅子は椿餅をひとつ手に取り、青々とした葉っぱを丁寧に剥がす。
ひと口かじって、ほぅ、と呟いた。
「美味しい……」
内心、ガッツポーズの梨花である。
つぶつぶした生地のお餅を、紅子はゆっくりゆっくりと、少しずつ食べた。
最後にお茶をひと口飲んで、ふぅ、と息を吐く。
お皿に残った椿の葉をひとつつまんで、紅子は目を閉じた。
「翔さん、ありがとう。あなたが私のために、このお花をお家に迎えてくれたから、私は故郷から遠く離れたあの場所でも、寂しくはなかったわ。あなたが、いなくなってからも」
梨花は目をこすった。
椿の花がふわりと浮いて、ぼんやりと溶けたのだ。
溶けたあたりの空気が揺らぎ、ひとのかたちをかたどった。
(え、ええ??)
ちら、と隣の梶田を見るが、梶田は紅子しか見ていない。
梶田には見えていないのか。
梨花は、男性のようなものに目線を戻した。
梶田にどこか似ている、壮年の男性だった。
おだやかな優しい目元に、ほくろがひとつ。
そのひとは、紅子にむけて、にこりと笑う。
紅子の持つ葉っぱに触れて、そして消えた。
(ふわぁぁぁ)
見てはいけないものを見てしまった気になる、梨花。
幽霊とか、そういう事ではなく、紅子とご主人だけの想いのふれあいを、他人が覗いてしまったような、申し訳ない気分になった。
「ばあちゃん……?」
梶田は紅子の言葉に混乱していた。ささやかな期待が喉の奥でくすぶる。
(いつもと、様子が違う。昔みたいだ。僕の事もじいちゃんとごっちゃになって、わからなくなる前の、ばあちゃんみたいだ)
思わず呟いた梶田の声に、紅子はにっこりと答えた。
「なぁに? 翔太。あら、今日は学校に行かなくて良いの? おばあちゃん、お弁当作ってあげたいんだけど、体が言う事を聞かなくて」
梶田は目を潤ませて、紅子の手を取る。
「大丈夫。大丈夫だよ。俺のこと、わかる?」
「何いってるの。おばあちゃん、翔太の事が心配なのよ。あなたひとりじゃ、ちゃんとお野菜たくさん摂らないでしょう?」
不思議だ。
亡きご主人の面影を見ていた表情と、全然違う。先ほどまでの、少女が夢を見ていたような、幸せそうな表情は、ひたすらにただただ穏やかだった。
今の紅子の表情は、もっと強さを感じる、穏やかさだ。孫を心配する、おばあちゃんの顔だ。
「紅子さん。大丈夫です。私も、お弁当を差し入れします。お野菜たっぷりの」
梨花が言うと、梶田が驚き、梨花の顔を見返す。
「えっ」
「ご迷惑じゃなければ。ひとつもふたつも一緒ですから」
「迷惑だなんて! すごく嬉しいです!」
「ありがとう! そんな人が翔太のそばにいてくれたら、私ももう安心だわ」
梶田と紅子の言葉に、にっこりと微笑い、梨花は言う。
「家庭料理って良いですよね」
(ああ……。義理だという牽制じゃなく、天然だな、これは)
梶田にとって、梨花の料理を食べられる事が嬉しいという気持ちは、はっきりと言わないと伝わらないらしい。
けれども、今すぐにそれを伝えるとスッと引かれそうな気がして、梶田はその気持ちを飲み込んだ。
(まぁいい。ゆっくりで良い)
一歩だろうが半歩だろうが、前進は前進だ。
何よりも今は、この喜びにひたりたい。
もう、会えないと思っていた、あの頃の祖母にまた会えたのだ。
たとえそれが、ひとときの事であったとしても。
「ありがとうございます」
帰り道、梶田は前を向いたまま言った。
その頬と目が少し赤いのは夕焼けのせいだろうかと、梨花はぼんやり思った。
「ばあちゃん孝行できて、本当に、嬉しい。僕が学生だった頃のばあちゃんに戻ったみたいで、嬉しかった。ありがとう」
そう言ったあと、ぽつりと付け足す。
「ありがとうじゃ、足らないけど」
「とんでもない。首を突っ込んだのはこちらです。お役に立てて、よかった」
梶田が突然立ち止まったので、梨花は数歩先で振り返る。
梶田の真剣な顔に、その目に、梨花は少し緊張を覚えた。
「梨花さんが1人でいたくない時は、僕がそばにいますからね」
覚えておいてくださいね、と言う梶田。優しく笑ったその顔が、夕焼けの色とともに、梨花の目に焼きついた。