第88話
キャラメルのフレーバーが、ふわっと鼻をくすぐる。
暖かみのある木のテーブルに、3人分のお茶の準備をして、コナが椅子に腰をかけた。
コナの店の2階に、キョーコと梨花がやってきての、女子会の日。
窓の向こうには、運河とゴンドラ。
そして猫耳、尻尾のある獣人たち。
もうこの景色にも、驚かなくなった。
「そっかぁ〜。遠距離かぁ」
コナの柔らかそうな耳が、ピクピクと動く。
「うん……」
梨花は小さく頷いた。
「さみしいね」
「それで今週は元気がなかったのね〜!」
ぎゅう、と、キョーコが梨花を抱きしめた。
「ひとりでゆっくり考えられた?」
今日まで黙っていたことには触れず、優しく問うてくれるキョーコ。
「はい。でも、やっぱり答えはまだ」
「当然よぉ、大きな決断だもん」
大きな目をさらに大きく開いて、キョーコは続ける。
「梶田っちも、本来なら将来の事はもっとゆっくり話すつもりだったんでしょ、きっと。会社勤めも大変だよね、そういう時は。タイミングを逃すと、まとまるものもまとまらないものね」
コナが、そっちの世界のお仕事事情には疎いけど、と前置きをして言う。
「梨花は、どうしたい?」
「まずは梶田さんが一度戻ってくるまでに時間はあるから、じっくり考えるよ。でも────」
と、歯切れ悪く、梨花は言う。
「いつかは、と、思っていたけど」
それはあくまでも、ぼんやりとした将来の話で。
「本当に、今なのかな」
いざ現実としてやってくると、躊躇してしまう。
嫌なわけはない。そうではなくて────。
「ひとりぼっちでも、自分だけで立っているのが、唯一のプライドだったのかもしれない」
自分の気持ちを噛み砕くようにゆっくりと話す梨花の肩を、キョーコが優しく抱いた。
「わかるよぉ!」
「とにかく、いろんな気持ちが入り混じって、混乱してます」
「うんうん」
「いろんな自分がいて当たり前だよ。昨日の自分と今日の自分だって、違うんだよ? 一日分の経験が増えてるんだから」
尻尾をゆらゆらさせながら、コナが言う。
「ねぇ、梨花。いっぱい悩んで決めたらさ、頑張って選んだ自分を、ちゃんとほめてあげてね」
「────うん」
梨花の悩み癖を知った上でのコナの言葉が、胸に染み入る。
もし未来の自分が後悔をしても、過去の自分を否定はしないでおこうと、梨花は思った。
何度も想像はした。
仕事を辞めて、知らない土地に行って、自分に何が残るだろう。
梶田だけを頼りにして生きていくことへの、抵抗がある。
それはまるで、自分が自分じゃなくなってしまうような、怖さ。
でも、そんな後ろ向きな気持ちが、選んだ道を曇らせてしまわないように。
それ以上の想像もできない喜びだって、人生には訪れる。
恐怖から目を逸らす選択ではなく、辛くても歩みたいと強く願えるほうに進めるように。
「肩に力が入りすぎ! 絶対考えすぎてるわよ、梨花ちゃん!」
ぽん、とキョーコに肩をたたかれて、我に帰る。
「まぁ、急がなくて良いよ。大事なことなんだから」
と、コナも言う。
「好き同士なんかさ、いつかはおさまるとこにおさまるんだから」
「そうよ、なるようになるもんよ」
そう、明るく笑ってくれる隣人たちに、梨花は微笑み返した。
「うん」
「────それにねっ、「ひとりぼっち」じゃないでしょう、もうっ!」
「それな」
先ほどの「ひとりぼっちでも」という、梨花の発言を拾ってきて、キョーコが眉をひそめた。
それには食い気味にコナも同意する。
「私は梨花ちゃんの決断を、応援する! 私たちがいるから大丈夫よっ! もし梨花ちゃんがシェアハウスから出て行っても、私だって会いに行くからねっ!」
「キョーコさん、ありがとう。私も、いつかそんな時がきても、会いに行きます!」
そう言ってから、はた、と梨花は気づく。
「もし、シェアハウスから出て行ったら。コナとは、もう会えなくなっちゃうのかな」
言葉にすると、ざわざわと胸がさわぐ。
シェアハウスへの道がなくなるということは、大家さんや、コナにも会えなくなるということ。
いつか会おうねとメールや年賀状では言いながら、実際には何年も会えていない友人や知人も、いる。
でも、会おうと思えば会えるのと、絶対に会えなくなるのは、意味が違う。
本当の意味で、世界が違う。
うーん。と、コナは天井を見て首を傾げた。
その顔に、さほど深刻な色はない。
「カヨの事を思うと、その可能性は高いねぇ。まぁでも、いずれにしても、その時はいつ来るかわからないよ。梨花だけじゃない。私だって────ある日突然、思いもしない運命が動き出すかもしれないしね」
そう言って、コナはカラカラと笑う。
「たとえ毎日同じ場所にいるように見えてもさ、私たちは常に変わり続けてるの。だから未来の自分の気持ちは、過去の自分にもわからないんだから。大事なのはさ、その瞬間の自分の気持ちに、ちゃんと耳を傾けてあげて」
それにね、とコナは続けた。
「私たちの世界の御伽話ではね、みんないつか同じ場所に帰るって言うの。だから、どこに行ったって、お別れじゃないんだ。
とくにここは港町だからね、一生に一度しか来ない人もいる。どんなに仲良くなっても、二度と会えないってわかってる人もいる。でもみんな、行ってきますって手を振るし、いってらっしゃいって、見送るんだよ」
「────いいね」
と、キョーコが頷く。
「でしょう? カヨも同じだよ。またこうやって、梨花が新しい縁をつないでくれて、思い出を届けてくれたんだもの。思いは巡るよ」
「そう、そうだったね」
おばあちゃんが繋げてくれた、コナとの絆。
「そっ。だからさ、会えなくて寂しいと思うなら、それは梨花が私の心に住んでくれた証だから。その気持ちを大切にするだけ」
「ありがとう。素敵な考え。私も、そう思うことにする」
「うん、そうだね」
梨花が言い、キョーコが頷く。
コナは照れたように頭をかいた。
「あれ、いいこと言っちゃったかなー! ま、自分が自分である時間は、案外、短いからさ。お互い、頑張ろう」
「うん。約束するね。ありがとう、コナ」
「よしっ! ね、こっちも食べてみてよ。友達の店の新作でさ────」
そう言って、コナはお茶菓子ののった小皿をテーブルに運んだ。
「ありがとう。いただきます」
トリュフのような形のスイーツ。
フォークで割ると、中に詰まっていたのは、白いクリームのような、半解凍のアイスのような────
まっさらの雪のようにも見えるその中に、小さなオレンジ色の粒。
それを口に運ぶと、チョコのような甘さと、ミルクの風味が、溶け合って幸せを生む。
「おいしい」
柑橘の皮のような香りが効いている。
それは爽やかで、少しだけ苦かった。




