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第87話

「博多に……行く」


「うん」


 梨花のオウム返しの呟きに、隣の梶田は神妙な顔で頷いた。



 会社から、近くの店に場所をうつしていた。


 こじんまりとしたバーのカウンターで、ジンジャーエールのグラスを握ったまま、梨花は博多という言葉を反芻する。


 結露した水滴が、コースターににじむ。

 穏やかなジャズの音と、マスターの振るシェイカーの音が聞こえる。


 言葉を選んで選んで、やっと喉から小さな声が出た。


「────いつから?」


「けっこう急なんだよね。二週間後」


「二週間……。ほんとに急……」


「本来行く予定だった上司が、急遽部署変更することになってね。もっと上のポストの人が倒れちゃって、彼が代理というか、実質の昇進というか。それで空いた席────代理の代役が俺にまわってきたっていう」


 まいったよね、と、梶田は頭をかいた。


「責任のある立場に、なるんですよね。……なるのよね」


 なんとなく、敬語だと距離を感じてしまいそうで、梨花は言い直した。人と話す時、距離が縮まった関係でも敬語がなかなか抜けないのは、あまり良くない癖だなと自分でも思う。


 そんな内省はさておき、ここは喜ぶべきなのだろう。

 梶田の年齢からしたら、異例の大抜擢のはずだ。


「支社の立ち上げだからね。とりあえずは一カ月ほどあっちで、向こうの人間と顔合わせだよ。そのあと、一度こっちに戻って、引っ越しとか、元の仕事の引き継ぎを終わらせて。向こうでの人員確保と育成もあるし、正式に行ったら、最低1〜2年は赴任したままかな」


「1、2年」


 自分の声が、オウム返しのロボットみたいだ。

 今どきAIのほうが、よっぽど気の利いた答えを返しそう。


「その先も────今のところ、どうなるかはわからない」


「うん────」

 うまく言葉が出なくて、上の空のような相槌だけをうつ。


「こんなタイミングで言うのはズルいかなって思ったんだけど。もしさ。いずれは一緒に来てって言ったら、どう思う?」


「あ────」


 嬉しい。それはもちろんひとつの感情として存在する。


 でも、もちろん行くよと即答は出来なかった。

 そんな梨花の様子を察してか、


「や、ごめん。ダセぇな、俺」


 たたみかけるように梶田がこぼした。


「ええ? そんなこと」


「や、甘えてるわ。意見を聞くテイで、梨花に判断を委ねようとした」


「────」


 梨花、と呼ばれるのは、まだ慣れない。

 慣れないまま、遠距離になってしまうのか……。


 マイホームを買ったら転勤になるなんてジンクスを、新卒の頃によく聞いた。定年も近い上司たちが昔の笑い話にしていたけれど、実際にはこんな気持ちだったのかな。


 あたりまえだと思っていた毎日ががらりと景色を変えてしまう、寂しさと心細さ。


「ただ、驚いて」

 梨花はそう言って、ぎこちなく笑った。

 もう少し若かったら、躊躇なく飛び込めたのだろうか。


 梨花も一緒に転勤というわけには、いかない。


 一緒にいくのであれば、つみあげたキャリアを一度たたむことになるだろう。


「そうだよね。俺の気持ちを言うね。一緒に来てくれたら嬉しいし、梨花が仕事をやめるなら、養えるだけの蓄えも給料も、正直あると思う。でもそのために梨花に何かを諦めて欲しいとは思わない。とりあえずまだ決まってないことが多いから。半年後には状況が変わるかもしれないしね。いままで通りの関係で、将来のことは様子見てから考える、でも、もちろん良いよ」


 こくりと、梨花は頷いて、梶田の目をまっすぐにみた。


「考えます。これ以上ないってところまで」


「ありがとう。頼もしい」

 ほっとしたように笑って、梶田はグラスのふちを撫でた。


「どんな決断になっても、俺たちは変わらないからね」


 あ、でも────と、つけくわえる。


「ひとつだけ約束して。俺の為とかいらない気をまわして、自分の本音を隠すのはやめてほしい」




          ◇




「ただいま……」

 ゆっくりと開ける扉が重い。


 この世界では風はいつも凪いでいるのに、まるで強風にあらがうような重さを感じた。




「おっかえりぃ! どうだった?」


 居間に入ると、キョーコがスマホから目を上げて聞いてきた。


「あっ、綺麗でした! 屋上からの花火、今年はふたりじめだねって……」

 内容は完全にのろけているのに、笑いながら話す自分の声が、なんだか遠く感じる梨花である。


「いいなぁ、楽しかったんだねぇ」


 キョーコには話したい。コナにも聞いてほしい。

 でも今じゃない。


「あっ、お風呂空いてますか? 汗かいちゃった」


「うん、大丈夫だよ。ゆっくり入っておいで」




          ◇




 ベッドにつっぷして、ゆっくり細いため息をついた。


「選ぶ……私が?」


 自分だけじゃない。


 人の人生にまで影響を与える選択を、その重さを、初めて噛み締める。


 仕事だって、なんだかんだ愚痴もこぼしながら、やりがいを持ってやってきた。

 当たり前の日常はそのままで続くものだと思っていた。


 そんな保証などどこにもないと、梨花はわかっていたはずなのに。




「道が、ひらいたらいいのに」


 この家から、博多まで、ひとっとびの道。


 そうしたら、いままで通り、梶田にも会える。


 会社では会えなくなるけど、仕事帰りに一緒にごはんを食べたり、映画を見に行ったりできる。


 そんな、都合の良い妄想をしたって、仕方がない。




 今までだって、選んできた。


 進学も、就職も。


 何かを選んで、何かを選ばなかった。


 だけど自分ひとりのことじゃないということが、こんなにも重いなんて。


 一年前には想像もしなかった選択肢が、逆光で見えない道の先のようで怖かった。



 

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