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第86話

「んっ。美味しい」


 焼きそばを頬張って、つい梨花の口から言葉が漏れた。

 色の濃い見た目よりも薄味で、素材の味がたっている。

 香ばしいソースの味が、お祭り感が高まって気分があがる。


 職場から屋上に持ち込んだランタンと、周囲のビルの明かりで、食事に困らない程度には手元が明るい。


「こっちも美味いよ」


 そう言って、梶田が梨花の紙皿にお裾分けをくれる。


「スペアリブも良いで……良いね」


 言い直したら、なんだか不自然になってしまった。

 でも気にしない。目の前の美味しさと楽しさを存分に味わおう。

 バルサミコ風味のスペアリブ。口の中で、肉の繊維がほどけてゆく。普通の屋台には無い味だ。


「テイクアウトもいいね。いろいろ楽しめて」


 今度は気をつけて、最初から敬語を抜いて話しかける梨花。

 それに気づいた梶田が嬉しそうな顔をするものだから、たまらなく恥ずかしくなる。


「うん。あのバル、いいな。普通に飲みにも行きたいよね」


 そう言いながら、梶田はプラスチックのコップに、コンビニで買ったワインを注ぐ。


「あっ、始まる」


 ひゅるるるる……と、始まりの音が空に響いた。


 近隣のビルからも、歓声が上がった。


 真下ではないけれど、夜に咲いた花火はじゅうぶんに大きく、綺麗に見える。


「おー、綺麗」


「去年を思い出す……ね」


「ね。去年はさ、会社に残ってた皆で出前とかピザとかとって、見たんだよね」


 そう言ってから、思い出したように、ははっと梶田が笑い出した。


「梨花は、猫と話しながらプリン食べてた」


「やだ、見てたんですか」

 慌てて、敬語が復活してしまった。


「あれは────だって」

 弁明しようと、梨花はあの日のことを思い出した。




 ────────────

 ────────

 ────



 花火が終わった後。


 皆で、ゴミや机の片付けをした。


 そのあとは残業に戻る人、帰宅する人、花火の余韻とゆっくりお酒を嗜む人。様々で。


 梨花はまんまるの月を見ながら、屋上の端っこで一人、沙月にもらったプリンを食べていた。


 するとビルの屋上までどうやってやってきたのか、夜を背負ったような黒猫がじっと、梨花を見てきたのだ。


「ごめんね、これはあげられないの」とか、「君はどこから来たの?」とか、そんなふうに声をかけただろうか。大したことは言っていないと思うけれど。


 放っておくのも心配なので、抱っこしようとしたら、猫は大人しく梨花の腕におさまった。




 そういえば、そのまま屋内に戻ろうとして、梶田とばったり会った記憶がある。


 てっきりその時に来たのだと思っていたのに、ずっと見られていたとは。




 あの時、黒猫に「待っててね」と声をかけて、足元におろした。

 梶田のあまり良くない顔色と手の中のタバコの箱を見て、胸がモヤモヤした。そして、親しくもないのについ口出しをしてしまった。


「大丈夫ですか? 少し顔色悪いのに、タバコはダメです」


「そう? 顔色悪い? ちょっと疲れたかな」


 そう言って、素直にタバコの箱をしまう梶田。


 梨花は自分のかばんから水筒を出して、あたたかいほうじ茶をコップに注いだ。

 夏だからといって、冷たい飲み物ばかりだと、身体の中を冷やしてしまう。


「ありがとう」

 梶田はコップを受け取って、ゆっくりと飲んだ。

「美味しい。ほっとするね」


「ご飯は食べられましたか? あっ、プリン、もうひとつありますよ」


 テーブルの準備などを手伝ったご褒美と言って、沙月がふたつ、くれたのだ。


「ほんと? いただこうかな」


「どうぞ」


「ありがとう」


「じゃ、私はこれで────」


 梨花は律儀に待っていた黒猫を再度抱き上げ、立ち去ろうとしてから振り返り、梶田に念押しをした。


「おせっかいかもしれないけど。ちゃんとお休みとってくださいね!」




 ────────────

 ────────

 ────

 

 




「あのプリン、人生でいちばん美味かったなー」

 と、梶田が屈託なく笑う。

「黒猫ちゃんは、あのあとどうしたの?」


「ビルの外までお送りして。お外に出たら、自分で歩いていきました」


「そっか。よかった。話が戻るけど、あの時、頬張る顔が幸せそうでさ、ほんとにプリンが好きなんだろうなって思った。大事そうに食べてたよね────」


「梶田さ────」


「ん? 今日も下の名前で呼んでくれないの?」


 片眉を上げて促す梶田に、梨花はコホンと咳払いをした。


「し、翔太さん。あの時ずっと見てたなんて、今まで一言も」


「うん。俺だけの秘密にしてた」


 ああ、もう、そんなふうに笑わないでほしい。


 そんな大切なものを見るような目を向けないでほしい。


 梨花はぎゅうぎゅうと胸を締め付ける現象の名前を探した。


 そしてため息をついた。


 恋だろうが愛だろうが、こんな気持ちを知ってしまったら、知らなかった自分にはもう戻れないじゃないか。


 心の中で七転八倒する梨花の隣で、梶田はお酒のせいか少し赤くなった顔を空に向けた。


「月がまんまるで、花火が終わった後も綺麗だった。────そう、綺麗だったんだ。すごく。だから、ひとりじめしたかった。あの時から」


 梨花も真似して月を見上げた。

 今日もまん丸で、黄色い月。


 どんどんと打ち上がる花火に負けないくらい、力強く輝いている。


「ふふっ。今日はふたりじめですね」

 そして思い出す。

「あっ、そうだ」


 持ってきたクーラーバッグから、おなじみのタッパーを取り出す。


「はいっ、プリンと一緒に、金柑の甘露煮もどうぞ」


「金柑?」


「はい。時期は違うんですが、たまたま手に入って────」


 たまたまも何も、大家さんに頼んで、用意してもらったのだが。


「あの時もそうだけど、最近の翔太さんはなんだか疲れていそうなお顔をしていて」


 気になっていたのだ。だから。

「金柑は体に良いし、疲労回復にも」

 話している途中で、梨花の言葉は遮られた。


「ひとりじめで合ってるよ」


 梶田がそっと梨花の肩を抱き寄せて、あっという間に、唇が重なった。


 とても短いキスだったけれど、自分の心音と花火の音で頭がうるさい。梨花の言葉の続きは、とっくにどこかへ迷子になってしまった。


「ひとりじめしたかったんだ、梨花のことを」


 梶田はそう言って、今度はこつんと、額同士をくっつけた。




「え? あ、月じゃなくてそっち……?」


 ようやく出たのがそれだった。混乱した思考をそのまま漏らしてしまってから、ムードもへったくれもないなと梨花は反省する。


「知らなかったでしょ」


「知らなかったです」


「じゃあ今知って」


「はい……」


「はい、あーん」

 と、梶田が口を開けた。


「え」


「ほらほら、せっかくだから、ちょーだい」

 子供のように口をぱくぱくさせて待っている。


「はい」


 梨花は笑いながら、金柑の甘露煮を、梶田の口に運んだ。




          ◇




「────今日はずっと楽しかったな────」

 

「うん、花火も綺麗でしたね」

 タッパーを片付けながら梨花が言うと、梶田はそうだね、と相槌をうつ。


「ああ、明日も仕事かぁ。サラリーマンの宿命だねぇ。でも」


 急に真剣な顔になって、梶田は姿勢をただして梨花に向き直った。


「もうちょっとだけ、今日の時間を俺にくれる?」







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