第8話
「大家さん! 椿の葉ってありますか?!」
居間に入るなり、梨花はそう言った。
大きなひよこ……ではなく、大家さんは、うむ。と頷く。
勝手口の足元にある、猫の出入り口のような仕切り窓から、ひょこひょこと夜の裏庭に出て行った。
あの扉の向こうは、大家さんしか行けないらしい。
どうなっているのか、誰も知らないそうだ。
どんな野菜も採ってきてくれるので、きっと畑はあるのだろうと、梨花は思うのだけれど。
「おかえり。桜餅おいしかったよ!」
キョーコが自室から出てきて、迎えてくれる。
家に帰ると暖かくて、話し相手がいるということに、幸せを感じる梨花である。
「キョーコさん! お口にあってよかった。
木曜ーー今度の祝日も、また違うのを作るので、楽しみにしてくださいね」
「楽しみにしてる♡」
にしし、と笑いながら、梨花に近づくキョーコ。
「梨花ちゃんの恋話も楽しみにしてるよー!」
梨花は顔の前でひらひらと手を振って、否定する。
「やだ〜! 私にそんな話、カケラもありませんよぉ」
(ううん?
おしゃれして手料理を作って、休日に男と会い……恋話のひとつもない?)
にこにこと笑う梨花の顔を見て、おおかたのことを察したキョーコである。
見ず知らずの彼に、心の中からエールを送った。
「椿餅?」
食後のコーヒーを淹れながら、キョーコは聞きかえす。
「そうです! 源氏物語にも出てくる、日本最古の餅菓子とも言われるんですよ」
「へー! 美味しいの?」
「美味しいです♡」
想像するだけで幸せそうな表情をする、梨花である。
「平安時代のものは、いまとは違うと言われていますけど。いまの椿餅は、中身があんこで……」
梨花のテンションの高さに、興味深い目線を送るキョーコ。
(これって、半分は趣味とはいえ、噂の彼のためにやってるのよね? こんなに一生懸命になってくれたら、相手は好意を期待するのじゃないかしら)
当の梨花は、純粋な興味と善意で動いているのだろうけれど。
(面白いから、しばらく見守ろうっと)
ウルトラハイパー鈍感だろうが、梨花だっていい大人だ、相談もされていないのに口出しも無粋だろう。
「……なので、葉っぱは食べずに外すのが椿餅なんです! 桜の葉のように塩漬けにするわけでもないので、お餅自体もしょっぱくならないですし。まだ雪の降る時期に出回ることが多いので、紅子さんの記憶とも合致するかと!」
身振り手振りと話し方が、まるでドラマの探偵だな、とキョーコは思いながら頷く。
そういえば、推理小説が好きだと言っていた。
「何より! 生垣の赤い花といえば、椿です」
夢見る乙女のようなとろりとした目で、自説を展開する梨花である。
「ご主人は、紅子さんの名前に合わせて、赤い花を咲かせる椿をお庭に選んだのじゃないでしょうか……!」
「やだ素敵」
「ですよねぇ!」
絶対そうですよと、嬉しそうに言う梨花。
(そこまで想像力が豊かなのに、自分の事となると気づかないものなのねぇ)
まだ見ぬ「彼」にアドバイスをしたい気持ちも、無いではない。
しかし、やはり駄目だ。
こと恋愛において、他人の口出しは、機を誤ると害にしかならない。
何より、この家を出て元の世界へと歩き出せば、自分とこの熱血かわいい女の子の生活圏は、500キロも離れているのだ。
同じ家に暮らしていると、お互いの友人とも気軽に会えるのではないかと、うっかり勘違いしそうになるけれど。