第78話
「浴衣」
キョーコにだけ聞こえるくらいの音量で、透也が言う。
「めっちゃ似合ってる」
急に真面目な声のトーンになるのはやめてほしいものだ。
「ありがと」
くすぐったさをごまかすように、キョーコは言葉を続けた。
「あっ、金魚、いく? ────って、ちょ、」
慌てるキョーコの声に、シャッター音がかぶさった。
パシャパシャパシャ────
「どんだけ連写! 撮りすぎ」
思わず声を荒げてツッコんでしまったじゃないか。
「今日なら許されるかなって」
スマホの向こうから、にゃははと笑う透也。ずるいだろう、その人懐っこい笑い方は。
「でも下手くそなんだよね、撮る方は」
むぅ、と口をとがらせながら、カメラロールを確認している。キョーコのクレームなどおかまいなしだ。
ホラ、と向けられた画面にずらっと並んだキョーコの写真は、ところどころ白く光っていたり、動く被写体を撮った時のように、背景にピントが合っていたりした。キョーコは静止していたのに。
「いや、ボケすぎでしょ。私が早く動いたみたいじゃない」
「なんでだろね? あと、キョーコちゃんが光りすぎなんよ」
「光ってないわよ」
バカみたいな会話に、キョーコの緊張もだんだんととけてきた。
むしろ、それが最初から透也の狙いだったのだろうか。
「あっ、ねえ。あの猫についてこう」
「へ? いいけど、ふしぎちゃん?」
子供のような提案をする透也の顔をまじまじと見た。
今日会ってから初めて、まじまじと。
そして思うのだ、改めて。
(嫌だなぁ、やっぱり好きだわ。この顔も表情も)
つまるところ、どうあがいてもキョーコの足元は沼なのだ。
きっと感謝するべきなのだと思う。
そういう相手に出会えたことは。
思っている以上に臆病だった自分が、前に進めなかっただけで。
「ほら、待ってるよ」
「え」
たしかにその黒猫は振り返るような仕草をしながら、翠色の目をこちらに向けている。
「……まぁ、ついておいで、って、言ってるように見えなくもないわね」
「でしょ? 俺、猫にはモテるから。猫運いいから。いいことあるかも」
「猫運て。……猫だけじゃないでしょ」
あなたがモテる対象は。
「ん?」
首をかしげて顔を覗き込んでくる透也。
「なんでもないっ」
透也の気持ちをはぐらかしてきた自分が、拗ねるような事を言った事に、あとから情けなさと恥ずかしさが込み上げてきた。
キョーコたちのペースに合わせるように、黒猫はゆっくりと進んでいった。
何度目かの角を曲がったとき、黒猫は立ち止まってひとつ鳴いた。
そして傍の塀を駆け登って、その向こうへ消えてしまった。
「ああ、行っちゃった。ここがゴールなのかな?」
「こんな通り、あったっけ……?」
キョーコはきょろきょろとあたりを見回した。
夕焼け色のアーケードの下に広がる商店街。
あちこちで、元気な呼び込みの声や、店主と客の話し声、笑い声が聞こえた。
学生の時は友人とよく遊びに来た地域なのだけれど、こんな場所には覚えがない。
しばらく来ない間に、ずいぶんと様変わりしたものだ。
再開発された街というよりは、昭和の人情映画に出てきそうな雰囲気である。
しかも。
「何ここ、楽しそうっ……!」
楽しげな音だけではない。
とても良い匂いがただよっている。
道ゆく人々も、美味しそうに食べ歩きしていたり、店先に置かれた簡易テーブルで、舌鼓を打っている。
「ほらね、俺、猫運いいでしょ」
「さすがね」
「わー、気持ちの入ってない言い方」
「そんなことあるけど」
「ひでぇ」
ケタケタとお腹をかかえて笑う。
ライブの時とは違う透也の顔が、嬉しいと思う。
だからたまには、素直になっても良いかなと思ったのだ。
金魚は見に行けなかったけれど、せっかく黒猫がくれたこのチャンスに。
「透也さんといると、楽しいのは確かだわ。猫運があっても、なくても」
「わあ。抱きしめて良い?」
「だめ」
「だめかー」
最初からそんな気は無かったように、ははっと笑って、透也が小走りに前にでた。
「あっ、俺、コロッケ食べたい!」
さらりと出された手。その手を取らない選択肢など無いのだと言わんばかりの自然さで。
「キョーコちゃんは?」
「……メンチカツにする」
そう、そのお店までだ。
お店に辿り着くまでは、この左手をゆだねてみよう。




