第70話
戻ってきたのは、冨田茉莉花だった。
つかつかと歩いてきたかと思うと、思い詰めたような顔で綿貫の前に立った。
「綿貫さん」
「うん? どうかした?」
綿貫が返事をすると、真剣な目で彼女は言った。
「聞いていただきたいお話があります。このあと、ちょっとだけ、お時間をください」
どんな話か検討はつかなかったけれど、彼女のまっすぐな目には応えてあげたいと、綿貫は思った。
「いいよ! 後で飲みに行く?」
つとめて明るく提案すると、こくりと彼女は頷いた。
「はい。よろしくお願いします」
そういうことになった。
◇
「綿貫────くん?」
少し遅れてやってきた梨花は、ふたりと梶田を交互に見てぽかんとした。
梶田はそっと、梨花に耳打ちをする。
綿貫たちに聞こえないよう、こっそりと。
「学生の時から、ずっと、好きだったらしいよ。彼女、綿貫くんを追いかけてこの支社に来たらしいし。飲み会で酔った時にポロっと話してたの。ほんと、その場にいたのが口の堅いメンバーばっかでよかったよ。冨田さん、酒入ると口が滑るタイプみたい。あ、これ内緒ね」
(そっち?! かっ、勘違い────!)
恥ずかしい、顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。
だったらなおさら、梨花に追いかけられたくはないだろう。
よかった。やらかすところだった。
未遂に終わって、本当によかった。
ああ、なんだろう、急に────。
「安心したら急にお腹空きました」
「何か食べに行く?」
「はい」
「安心、か。もしかして、やきもち妬いてくれた?」
またしてもこっそりと耳打ちされて、今度は耳が熱くなる。
「……はい。いい年こいて、廊下を走っちゃうくらいには」
嬉しそうに笑う梶田を、ついジト目で見てしまう。
話がひと段落した綿貫と冨田が、こっちに歩いてきた。
梨花は気を取り直して、通路の方を指差した。
「あっ、そうだ、楽屋。こっちです。みなさん、よかったら一緒に」
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────
──
「お会いできて光栄です! 1stアルバムの時から聴いてます!」
「おっ、古参だね〜! 嬉しいな。ありがとう」
透也が綿貫とにこやかに握手している。
「はじめまして。梨花さんとお付き合いさせていただいています、梶田と申します」
「はじめまして、これはご丁寧に。仙道と申します。お噂は、かねがね」
仙道は梶田におじぎを返して、梨花に向かって微笑んだ。
「よかったね、梨花ちゃん」
「ご紹介できてよかったです」
「お疲れのところありがとうございました。あまり長居してもあれなので、そろそろお暇しますね」
「やっぱり可愛いね、ハ……ごほん。梨花ちゃん。また遊びにおいで」
「透也さん。もうフォローはお腹いっぱいですから。ありがとうございます。また」
「ふふ。手厳しいな。クッキー美味しかったよ。次はケーキがいいな」
無邪気に笑う。
この人は本当につかみどころがないな。
それでいて、人の心をつかむのが上手い。
「ばいばーい」
子供のように手を振る透也に、手を振りかえす。
楽屋を後にする最後、冨田が仙道たちに向かって深く礼をしていたのを、梨花は見た。
◇
綿貫は、近くにあった半個室のイタリアンダイニングに冨田を案内した。居酒屋よりも落ち着いて話が出来るだろうと思って。
仕事の話や雑談をしながら、食事はすすむ。
そして、なごやかな時間は唐突に終わった。
「綿貫さんは、嘉洋さんのことが好きだったんですよね」
「ぶっ」
危ない。ワインを彼女の顔に吹き出すところだった。
口の端から垂れたワインをおしぼりで拭き、何急に、と目線で訴える。
「見てればわかります」
(あ、これだめなやつだ)
冨田の目が座っている。
綿貫はつとめて平静を装いながら言葉を探す。
隠しているわけでもないけれど、変な噂が広がると、自分はともかく梨花に迷惑だろう。
「やー……。好きっていっても、一方的なあれだしね。急に「好きだったんです」ってやつが現れてもさ、向こうからしたら、誰、あんた。でしょ」
自分の言葉が、ちくちくと刺さる。
「ただの憧れの延長だし、どうこうなりたいって気持ちはないよ。もちろん、幸せにはなってほしいけど」
「憧れじゃダメなんですか。憧れからの好きだって、ちゃんとした気持ちですよ」
ははっ、と、乾いた笑いをもらしてしまった。
「梶田さんには敵わないよ」
「綿貫さんだって、かっこいいと思いますけど」
綿貫は目を丸くして冨田を見た。
酔いのせいか、冨田の目が潤んでいる。
「どしたの、今日。嬉しいけどさ。ずいぶんとつっこむじゃない。……それだけで選ぶ人じゃないよ。二人しか知らない積み重ねの結果だ」
「なんで、あの人なんですか。私のほうが……ずっと、見てたのに……とか、そんな気持ちにならないんですか」
「割り込みとか無理ー! 俺、トーフメンタルだから」
あははと笑った声は、ゴン! という鈍い音にぶったぎられた。
冨田が空っぽのグラスを力一杯、テーブルの上に置いた音。
「と、冨田さん?」
「トーフメンタル? はっ! よく言うわ! あの局面であの力が出せる人が、トーフなわけないじゃない!」
「え、ちょ、冨田さん? だいぶ酔ってる? 嘘、まだ三杯目だよね??」
「高校3年の夏! 全国優勝をかけた最後のリレー! 第一、第二走者からの遅れで優勝は絶望的! それでもアンカーのあなたは諦めずに前だけ見て走りぬけた!」
「え、え?」
綿貫の動揺もよそに、冨田は拳を握って力説する。
「終盤の追い上げに観客皆が息を呑む! トップとの差はあとわずか!」
「冨田さん、俺のこと知ってたんだ。……そのあとわずかは、びっくりするくらい遠かったけどね」
「それでも! あの日のいちばんはあなただった! ずっと、見てたから!」
ゴン!
再び。
グラスの音とは思えない、鈍く重い音。
「冨田さん。落ちつこう」
思わず、グラスの底が割れていないか確認する綿貫である。
「綿貫さんはかっこいいの、誰がなんと言おうと一番なの」
「お、おぉ……ありがとう? えっと、今更なんだけど、俺ら、直に会ったことあるの?」
「覚えていただいているかは、わかりませんが」
冨田茉莉花はメガネを取り出して、かけた。
サイドに流していた髪を持ち上げ、擬似的に前髪をつくる。
綿貫の記憶の中で、ひとつのピースがかちりとはまった。
「ああ! いつもいちばん遠くで応援してくれてた子!」
「知ってくれてましたか」
「うん、目はいいんだよ。いつも来てくれてたよね。話したことは……ほとんどなかったかな」
冨田は急におとなしくなって、ぐす、と鼻をすすった。
「私、気持ち悪いやつなんです。綿貫さん、いつも人に囲まれてたから、遠くから見るのが精一杯で。でもずっと見ていたかったから、綿貫さんの入る予定だった大学に一般入試で入ったのに、綿貫さんはいなかった」
「ああ、それはごめんね。いろいろあって、推薦取り消しになったからね」
「いえ、ごめんなさい。私が勝手にしたことです」
冨田は眼鏡を外して、ピシッと背筋を伸ばした。
「陸上界からも消えちゃって、探しました。偶然、父の会社に入られたって聞いて……。今度こそ、使えるものは何でも使ってやろうと思って。あっ、でも、入社試験はちゃんと受けましたよ?! そこはズルしたくないから!」
「うん」
「あっ、最寄駅が同じなのは偶然です! そこは天に誓って!」
「うん」
「私も、さっき綿貫さんがおっしゃったみたいに、綿貫さんが幸せだったら良いと思いました。でも、違いました。綿貫さんは叶わない恋をしてた。それを目の当たりにしたら、我慢できませんでした。いっそ、私が綿貫さんを幸せにしたいでしゅ」
ゴン!
今度は、グラスではなかった。
冨田茉莉花の額がテーブルにダイブした音だ。
メガネを外していてよかった。
綿貫はまずそう思った。
「え、えぇ〜……。冨田さん、大丈夫……?」
すうすうと、小さな寝息だけしか返ってこない。
「困ったなぁ……」
「熱烈なプロポーズだったわね」
突然の声に、綿貫は飛び上がった。
「うわっ、沙月さん! いたんですか」
通路から顔を覗かせたのは、社内の裏ボスと名高い駿河沙月だ。
「言っとくけど、後から来たのは君たちだからね? あんなに大きな声、店じゅうに聞こえちゃうわよ。で。どうするの、プロポーズの返事は」
「からかわないでくださいよ、困ってるんだから」
「その割に、顔は笑ってるけど」
「嬉しいじゃないですか。そんなふうに自分をみてくれてた子がいるって知ったら。だからこそ、応えられないのが、困りました」
「応えられないの? 可愛いじゃない」
「梨花さんにフラれたからって、すぐ冨田さんって、しかも会社内で、節操なさすぎでしょ」
「綿貫くんさぁ、梨花ちゃんと一緒に仕事する未来なんて想像した?」
「いえ。これっぽっちも」
「そぉいぅことよ」
「待たせた挙句、叶わないかもしれません」
次の恋の予定など、今は無いのだ。約束なんてできない。
「綿貫くん、いま何歳?」
「えっと、今年24になります」
「つまり彼女、既に6年は待ってるって事よね。勝手に」
「……そっすね」
「せめて本人の気持ちに整理がつくまで、勝手に待たせてあげなさい」
「困ったな……本当に。責任なんてとれないのに」
「あのねぇ、彼女は自分で立ってる大人よ? 責任なんて自分でとるわよ」
ふふんと笑って、沙月はドリンクメニューを渡してきた。
「おかわりは? アオハル話のお礼に、いまなら奢ったげるけど」
「……一杯だけ、いただきます」
いっそ綿貫も酔っ払ってしまいたい気分ではあるけれど、今日は酔えそうにない。何より、彼女を送っていかなければ。
「沙月さん、冨田さんの住所ってわかりますか?」
「冨田ちゃんの同期の女の子に聞いてみるわね。私のとこで引き取って泊めても良いけど?」
「いや、たぶん俺と同じ駅なので。責任もって送ります」
◇
「君も来る?」
透也は、歩道橋の上に座って動かない黒猫に向かって言った。
暁人たちバンドメンバーはもう階段を降り切って、駅へと向かっている。
ちりん、と、鈴の音がした。
黒猫は動かない。
「そう、残念」
「透也────! いくよー!」
自分を呼ぶ声に、手をあげてこたえる。
「はーい」
軽い足取りで皆を追う。
ちりん、と、もう一度だけ、夜空に澄んだ音がした。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
今回は、作者がサブキャラに感情移入しがちな章でした。
みんなしあわせになってほしい。
それでは、また次章でお会いできたら幸いです。
もずの