第69話
「次がほんとに最後の曲になりますっ!」
ボーカルの声かけに、ベースとドラムのふたりも出てきた。
バンドサウンドが奏でられる。
歌いながら、弾きながら、客席を煽るメンバー。
今日いちばんの盛り上がりだ。
最後の曲が終わるまで、獣はずっと伏せしたまま、動かなかった。尻尾だけが、犬のようにふりふりしていた。
「ありがとう、またねー! 気をつけて帰れよー!」
元気にはけていくボーカルの彼を追いかけるように、獣も舞台袖に消えていった。
「あっ、私、仙道さんに皆でご挨拶に行ってもいいか聞いてきます!」
梨花が取り繕ったようにそう言うと、梶田は梨花の肩にぽんと触れた。
「了解、待ってるね」
皆がいる場所では聞けない。先に聞きたい。
もとより挨拶する予定だった。仙道からスタッフに話は通っているはずだ。
梨花は受付で名前を告げて、楽屋の場所を聞いた。
────あれは、何ですか?
そう、仙道に聞くのだ。
きっと、仙道にも見えていたはずだから。
関係者以外立ち入り禁止の看板横を通り過ぎようとしたところで、呼び止められた。
「嘉洋さん」
「冨田さん」
「────ごめんなさいっ!」
がばっ! と、体を二つ折りにする勢いで頭を下げる冨田。
梨花は戸惑い、声が出た。
「え? ちょ、とりあえず顔を上げて」
冨田は姿勢をなおし、潤んだ目で梨花を見た。
「はい。すみません、突然。さっき、急に消えましたよね、私」
「ああ、そう、心配してたの。大丈夫だった?」
「大丈夫です。クッキーの、話題が出たから、です」
「クッキー……」
「綿貫さんが言ってたのって、あれですよね、この間、嘉洋さんが会社に持ってきてくれたクッキーの」
「あ、うん」
「あ、あの、あれ」
顔を真っ赤にして、冨田はもういちど頭を下げた。
「全部食べたの、私なんです!」
「え、ええ?!」
そうかもしれない、そんな話はしていたけれど。
まさか、本当に。
「その話が出たから、いたたまれなくなって、つい」
「で、でもあれよね。いじわるで捨てたとかじゃないんでしょ? 全部食べちゃったのは、やり過ぎだったと思うけど」
その細い体のどこに入ったのだろうか。
そんなふうに不思議に思いながら、梨花はスタイルの良い冨田のからだをじっと見てしまった。
まぁ、なんというか、ともかくだ。
「事情があったんでしょ?」
「最近、お菓子を見ると手が止まらなくて。市販のものをたくさん買ってそれで我慢するようにしてるんですが、手作りのものが目の前にあると、情けないくらい我慢ができなくて」
会社で見た勝気な冨田とは別人のように、しゅんと縮こまったようにして、言葉を続けた。
「でも、それだけじゃないんです。嘉洋さんに対して、いじわるな気持ちもありました。嘉洋さんは悪くないです。ただの嫉妬です」
「ああ、そうそう。それで梨花ちゃんにお菓子をお願いしたんだよ」
「え」
突然ふってきた声に冨田が固まる。
「仙道さん」
梨花も驚き名前を呼んだ。
仙道は優しく微笑んだ。
「こんばんは。今日は来てくれてありがとう。
────衝動的にお菓子を食べたくなるのは、昔から?」
後半は、冨田への問いかけだ。
「いえ、昔から普通に好きですけど、こんな渇望するような感じは、ごく最近」
「いまも、梨花ちゃんに対する嫉妬心は強いかな?」
「いえ、無いと言ったら嘘になりますけど、ずいぶんすっきり────なんだか、目が覚めたような」
「そっか。やっぱりね」
冨田との問答を終えて、仙道は梨花のほうに手を伸ばした。
「梨花ちゃん、クッキーこっちに貰っても良い?」
「あ、はい、どうぞ」
梨花は持っていた紙袋を渡す。
中には、普通のクッキーと、アイシングのクッキー。
配りやすいよう、小分けにして袋に入れてある。
仙道はそれぞれのクッキーをひと袋ずつ取り出して、封を開けた。そして、廊下に置かれていたパイプ椅子の座面に置いた。
すぐに、廊下の奥から、あの獣が姿を見せた。
鼻をひくつかせながら、そろりそろりと近づいてくる。
(ああ、狐だ)
近くで見るとよくわかる。
狐は二本足で立ち上がって、器用にクッキーを食べ始めた。
やがてその姿がぼやんとぼやけて、着物姿の女の子になる。でも、耳と尻尾だけは狐のままだ。
(あっ)
梨花がアイシングした、小鳥と百合の模様のクッキー。
女の子はそれを持って、梨花のほうをちらっと見た。
────これ、私のために作ってくれたの?
梨花は、こくこくと頷く。
にこぉ、と笑って、少女は大事そうにクッキーを胸に抱いた。
「見える?」
仙道が、冨田に向けて聞いた。
「はい……」
冨田茉莉花は呆然と答える。
「あれは────君についてきたんだよ」
「ついてって────えぇ? 食欲も、そのせいで?」
そう問い返したのは梨花だ。
冨田は驚きで言葉もないようだ。
「そうだね。でも悪いものじゃないよ。きっと、彼女の気持ちとシンクロして、増幅しちゃったのかな。何か────手に入れたい、手に入らない物があったかな?」
「────あ」
冨田の顔色が変わる。
「言わなくていいよ」
人差し指を唇にあてて、仙道は言った。
「君ならわかってくれると、思ったのかもね」
優しい眼差しを、女の子に向ける仙道。
「たぶん、もとは人間だったのかな。今では当たり前のおかしとか、甘い物を食べられない時代の子だったのかも。
────あの子、こっちで引き取っても良い? 悪いようにはしないから」
「え? あ、はい、────お願いします」
冨田はまた頭を下げた。やっと我に帰ったようだ。
「暁人。話終わった?」
仙道が声の主を振り返って、軽く手を上げた。
「透也」
透也と呼ばれたのは、ボーカルの彼だった。
「お、ここにいるのな? どんな感じ?」
そう言って、クッキーの方を見る。
「女の子です、狐耳の。あの、見えて────ないんですか」
梨花の問いに、眉を下げて笑う。
「いるのはわかるけどね、はっきりとは、姿は見えないんだ」
にこぉっと、人懐っこい笑みだ。
ステージの上ではとっても大人っぽかったけれど、整った顔は笑うと幼さもあって、高校生くらいにも見える。
(美しさと可愛さって同居するのね)
などと、梨花は妙な感心をしてしまう。
「見えなくても、寄り添うことはできるよ。悪いようにはしないよ。お前、うちの子になる?」
三角の耳がぴんと立った。
少女は透也のまわりをくるくると跳ねてまわった。
「ははっ、そっか。じゃあ今日から家族だ」
「透也の家は神社だから。似たような仲間もいるから安心して。相性はいいと思うよ」
と、仙道。
透也は、狐耳の少女のいるあたりを少しかまうようなそぶりをしてから、冨田の方を見た。
「ねぇ、そっちの綺麗なお姉さん。生きてるうちだよ、手を伸ばせば触れられるのも、目を見て気持ちを伝えられるのも」
「────────」
冨田の形の良い唇が、きゅっと引き結ばれた。
「すみません、お先に失礼します」
一礼をして、そのまま彼女は踵を返して去ってしまった。
「冨田さん」
追いかけようとした梨花を、仙道が止める。
ふるふると顔を横に振って、仙道は言った。
「ほっといておあげ」
そして、透也に向き直って注意をした。
「透也、さらっと失礼だよね。梨花ちゃんも可愛いよ」
「可愛くないとは言ってないよ」
「いや、すみません。フォローはありがたくいただきますが。えっと、追いかけなくても────?」
ゆらゆらと、透也が手を振った。
「大丈夫だよ。もう。手に入らない渇望が、この子とリンクしちゃったから、どんどんマイナスの方に気分がいっちゃってたみたいだね。リカちゃん、も、覚えない? ほしいものが手に入らない、何をしてもうまくいかない、だったら何もしない方が良い────みたいな、気分」
「あ、あります」
梨花は頷いた。
自分なりに折り合いをつけて、日々を送っているけども。
小さな挫折なんて、しょっちゅうだ。
「ふたりが離れてひとりになったから、彼女も少し目が覚めたんじゃないかな。人を羨むんじゃなくて、自分がどうしたいのか。向き合う気になったんだと思うよ」
そう言って、透也はまた笑った。
「大丈夫、彼女は強いよ。自分の望みもわかってる。あとは他人がどうこうすることじゃない」
「望みって、それは────」
(梶田さんのこと?!)
だとしたら、冨田さんには申し訳ないけど、梨花としては放ってはおけないのだけれど。
正々堂々と、邪魔はしない。でも、放っておくのは無理というものだ。
「すみません、一旦、失礼します! また後ほど、ご挨拶に伺います!」
「うん、あとでね〜」
透也の優しい声を背中に聞きながら、梨花はホールへと急ぎ戻る。
◇
「……なぁ、透也。梨花ちゃん、何か勘違いしてないか? 俺ら、説明ミスったかな?」
「かもね。ま、いいんじゃない? そんなんで壊れるカップルじゃないんでしょ? 可愛いね、暁人の同居人。走ってく姿がハムスターみたい」
「その褒め方、本人の前ではするなよ……」
「ハムスターは人間より可愛いよ?」
「いや、うん、まあ……。でも黙っとけ」
「了解。ねぇ、このクッキー、俺ももらって良い?」
「────はぁ。その子、尻尾たててるぞ。喧嘩しないで、分けるよーに」