第63話
「おはよ、梨花ちゃん」
梨花が給湯室の掃除をしていたら、先輩社員の沙月が現れた。
「あっ、おはようございます! 沙月さん。休憩室に昨日焼いたクッキー置いたので、よかったら」
「わー! 嬉しい! そっか、今日梶田くん戻ってくるんだっけ。幸せのおすそわけかぁ♡ ありがとう。せっかくだから、下で美味しいコーヒー買ってこよ。ついでにゴミ捨ててくるよ。これ一つ?」
と、足元に置いていたゴミ袋を持ち上げる沙月。
「はい。ありがとうございます」
◇
梨花が席に戻ったあとしばらくして、眉を下げた沙月がコーヒー片手に戻ってきた。
その表情からは悲しみが溢れている。
「梨花ちゃーん、休憩室のクッキーもう無くなってたぁ」
「えっ?! たくさん置いたはずなんですが……」
そんなに好評だったのだろうか。
隣の席から、綿貫が会話に入る。
「休憩室ですか? さっき、冨田さんが慌てて出てきたの見ましたよ」
(冨田さん)
梨花の胸がどくんと鳴った。
(まさかね)
安易に人を疑うのは良くない。
梨花は思いつく限りに好意的な意見を探して、言った。
「冨田さん────スレンダーだけど、もしかしたら甘いのお好きなんですかね。いや、でも、お腹空いていたのかもしれないし。そもそも、他の人が食べられたのかもしれないし。やめましょ。よし、綿貫くん、仕事しよ」
「あ、はい。すみません、軽率な事いいました」
と、綿貫。
「あ、沙月さん、またクッキー作りますね」
「うん、ありがとう────またね、梨花ちゃん」
◇
エレベーターの扉が開くと、そこには駿河沙月が乗っていた。
「お疲れ様っす」
「お疲れ様、綿貫────くん」
綿貫は1階のボタンが光っているのを目視して、閉まるボタンを押した。
「冨田さんってどうなの? 私、まだあんまり絡みなくて」
あけすけに聞いてくる沙月。綿貫は少し考えてから、冨田茉莉花に対する印象を述べた。
「俺もほぼ知らないですけど。ちょっと、梨花さんに執着してる感じがしました。私見ですが」
「うーん。……証拠もないのに、疑いたくはないけどさ」
「気をつけておきます」
「話がわかる子は好きよ」
「梨花さんには振られ済みですけどね」
綿貫がそう言うと、目を丸くして、沙月は綿貫を見上げてきた。
「今度飲み行こう。豚足好き?」
と、沙月は言う。上辺だけの慰めを言わないところに、むしろ優しさを感じる。
「食べたことないです」
沙月はにっこり笑って言った。
「何事も経験よ」
◇
なんでこんなところで会うのだろうか。
帰り道に立ち寄ったコンビニで、綿貫は迷っていた。
目線の先には、カゴに山盛りのお菓子やデザートを入れる冨田茉莉花の姿が。
その表情は楽しそうでも悲しそうでも無く、真顔というか、無というか、淡々としている。
ヤケ食いの類でも無さそうだから、部屋に友人でも招くのだろうか。
(というか、最寄駅同じなの? マジで?)
冨田は、支社には一時的な出向で来ているはずなので、もしかしたら駅前のマンスリーマンションでも借りているのかもしれない。
(まぁ、俺には関係ないけど)
しかし相手の思惑を探る上で、少し話してみるのも良いかもしれない。
綿貫は、つとめて明るい同僚として声をかけた。
「お菓子の食べすぎは良くないよ」
しまった、しょっぱなから言葉のチョイスを間違えた。
振り返った冨田茉莉花は、げぇ、っと潰れたカエルのような声を上げた。美人が台無しだ。
(え、俺、そんな嫌われてる?)
嫌われるほどの接点も無いはずだけれど。
まぁ、さっきの声かけは、我ながらキモかったかも。
綿貫が考えている間にも、冨田茉莉花の顔がみるみると赤くなる。
「────ほ、ほっといてください!」
冨田茉莉花は、慌てて財布を出しながら、逃げるようにレジに並ぼうとする。
その財布にくっついていたのだろうか、鞄の上から、カラフルな紙切れがひらりと落ちた。
綿貫はそれを拾い上げ────
「あっ! A-CHeRONじゃん! 冨田さん好きなの?!」
沙月からのミッションも忘れて、テンションが上がってしまった。
「えっ? あ、それは、人にもらって────」
冨田茉莉花の顔に「なんだこいつ」と書いてある気がするけれど、関係ない。
推しのことを話すときに早口雄弁になるのは、古今東西オタクの性だろう。
「うっそ、いいな! 関西のインディーズバンドなんだけどさ、めっちゃカッコいいのよ。俺、彼らの曲好きなんだよね。そっか、東京きてるんだ、いま。俺も行こっかな。当日券あるかな────」
「あ、あの、よかったら、差し上げます」
なんだか毒気のぬかれたような冨田茉莉花が、おどおどと言った。会社での自信満々の姿とは別人のようだ。
「え、でも、冨田さんがもらったんでしょ?」
綿貫は我に返った。明るくカツアゲしているようで申し訳ない。
「私、街のライブハウスとか行ったことないですし」
そう言ってそそくさと去ろうとするので、綿貫は思わず言ってしまった。
「じゃ、一緒に行く? 彼らの曲、ほんと、めっちゃカッコいいよ」
「────え? あ、えっと」




