第62話
「いい匂〜い♡」
形の良い鼻をひくひくさせながら、キョーコが起きてきた。
「あっ、おはようございます」
梨花はキッチンから声をかける。
「朝から精が出るねぇ。今日は梶田っちとモーニングに行かないの?」
「梶田さん、今頃トランジット先かな。明日の午後、帰ってくるって」
「わぁお。この連休にね。立派な社畜だわ」
キョーコは冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに注ぐ。
「明後日はお休みとられてるみたいですけど」
梨花は手元の生地をこねながら言った。
「クッキー。今焼いているのがプレーンで、こっちがココナッツクッキーになる予定です。宅配ボックスに入れておこうかなって」
「えー! 午後帰りなら直接渡してあげなよぉ」
「お疲れのところ悪いかなって」
「疲れてるからこそ、梨花ちゃんに会いたいんじゃなーい♡」
「そうでしょうか」
そうか、彼女というものは、そんなに軽率に会いに行っても良いものなのか。
彼女歴が浅すぎてわからない。
「今日から仙道さんもいないしさ、お料理、ちょっと余るでしょ。持って行ってあげたら? なんなら一緒に食べてきたら??」
「じゃあ……お言葉に甘えて。聞いてみます」
「喜ぶよぉ〜♪」
「あっ、キョーコさん。フレンチトーストありますよ。焼きましょうか?」
「きゃー♡ 嬉しい〜! ありがとう!」
「甘いの? しょっぱ甘いの? どうします?」
目を輝かせるキョーコに梨花が問うと、
「しょっぱ甘いの!」
はいっ! と手を上げそうな勢いで、キョーコは答えた。
「了解しました」
梨花は冷蔵庫からバットを取り出した。
フライパンを温め、バターを投入。
卵液のプールでくつろいでいた食パンを、そっと持ち上げフライパンに──。
じゅわ〜と焼ける音に続き、良い匂いがたちのぼる。
キッチンに漂っていたクッキーの香りにも負けない、フレンチトーストの魅惑的な香り。
「あっ、仙道さんといえば、新幹線間に合ったのかな」
「そうですね。とっても急がれてましたもんね。私の通り道が使えたら、よかったのに」
今日から仙道は東京なのだ。ライブの出演のために。
すごいですね! と梨花が言ったら、対バンのイベントだよ、と笑っていた。
対バンというのは、仙道のバンドだけではなく、何組かが順番に出演するイベントの形式らしい。
フレンチトーストをひっくり返し、隣に、ひとまわり小さなフライパンを出す。
こちらではまず、厚切りのベーコンを中火でじっくりと焼いていく。
「まぁでも、バンドメンバーもいるしねぇ」
「たしかに、皆さん一緒に行かれるのに、単独行動もちょっとアレですね」
まさかバンドメンバー全員を、シェアハウス経由で送り出すわけにもいかないし。
良い感じに焼き色がついたベーコンを取り出し、キッチンペーパーでフライパンの油をぬぐう。
かわりにオリーブオイルをたっぷりと垂らして、卵をひとつ割り入れた。
「半熟でいいです?」
「今日は、とろとろの半熟お願い♡」
白身がまわりから固まってきたら、熱したオリーブオイルを、スプーンですくって、卵の上からかける。
黄身の上がうっすらと白くなる。
頃合いをみて、仕上げのハーブスパイスをふりかけた。
フレンチトーストも、良い感じに焼けている。
ほんのり甘いフレンチトーストと、しょっぱいベーコン&目玉焼きのモーニングだ。
すべてをお皿に盛って渡すと、キョーコは「ありがとうー!」と言って、席についた。
「んー! たまごトロットロ! フレンチトーストの甘さが優しい! 梨花ちゃん天才!」
「ふふ。ありがとうございます」
「仙道さん、こんな美味しい朝食を食べ逃すなんてなー。ライブは明日からだよね。今日は何してるかなー?」
「観光とかされるんですかねぇ……」
洗うものをシンクにまとめて、梨花は梶田にメッセージを打とうとスマホを持った。
「あれ? 噂をすれば」
珍しい。
仙道からのメッセージが、通知画面に浮き出ていた。
◇
「ごめんねー! 梨花ちゃん。助かった。ありがとう!」
待ち合わせ場所に小走りでやってきた仙道が、勢いよく頭を下げた。
「俺としたことが、財布を忘れるとは……」
ご用命のものを手渡し、梨花は笑って言った。
「よく東京までご無事で」
「チケットはこん中だったからね。キャッシュレスのアプリも」
と、スマホを振って見せる仙道。
「さすがに身分証明書はこれじゃ代用できなくて。本当にありがとう。梨花ちゃんは恩人だよ。せっかくだからお茶でも」
「嘉洋さん」
突然後ろから声をかけられて、驚きながら振り返る。
そこにいたのは、冨田茉莉花だ。
「冨田さん」
まさかこんなところで会うとは。
「偶然ですね。こんにちは」
「こんにちは。──彼氏さんですか?」
挨拶もそこそこに、ぐいぐいと聞いてくる。
なんだかとても上機嫌に見えるのは、気のせいだろうか。
「いえ──」
咄嗟に設定を考えていると、仙道が助け舟を出してくれた。
「昔の友人ですよ。僕、普段は神戸に住んでまして。今回はこちらでライブをするので、久々にお茶でもと」
「へえ! 音楽関係の方ですか」
「あ、そうだ」
手品のようにどこからか取り出したチケット2枚を、冨田茉莉花に手渡す仙道。
「よろしかったら、来てくださいね」
「ありがとうございます」
にっこりと笑って、彼女は梨花に目線を戻した。
「じゃあ、嘉洋さん、また。良い休日を」
「はい、また会社で。良い休日をお過ごしください」
美女の背中を見送って、梨花は、ふぅ、と息を吐いた。
「助かりました」
「あの人は」
仙道は真剣な顔で、遠ざかって行く彼女を見ている。
「綺麗な人ですよね。会社の同僚です」
梨花がそう言うと、仙道は眉間に皺を寄せて呟いた。
「綺麗……というか……大丈夫?」
「え?」
仙道の問いに、梨花は首を傾げた。
仙道ははっとしたように手を振って、表情をゆるめた。
「ごめんね、気味悪がらせる気は無いんだけど。よくない気を感じたというか」
「気、ですか」
オーラのようなものだろうか。
「そうだね、毛並みは悪くないんだけど」
「??」
キューティクルの事だろうか。たしかに彼女の髪はいつもつやつやだ。しかし、何故いま。
(あ)
梨花はもうひとつの可能性に気づき、身震いをした。
「そういえば、仙道さんは副業をされているんでしたっけ」
「派遣職みたいなものだけどね。これでも神職でして」
「……何か、見えたんですか」
「ああ、いや、霊的なものではないよ。怖がらせてごめん」
「いや別に怖がっては」
つい食い気味に否定してしまった。むしろ墓穴か。
「ふふ。そっか。強いね、梨花ちゃん。彼女……ライブ、来てくれるかな。また、会えたらいいんだけどね」




