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第61話

 綿貫と別れてすぐの事だった。


 夜道で、その黒猫を見つけたのは。


 優雅ささえ感じさせるたたずまい。

 綺麗な毛並みは野良猫のそれでは無さそうだ。


 街灯の灯りできらりと光るふたつの目が、じっと梨花の事を見ていた。


 少しずつ距離を詰めても逃げなかったので、これはいけるのではないかと、顎の下にそっと手を伸ばす。


 黒猫は嫌がりもせず、梨花の手に顎をゆだねる。


(……よっし! 逃げない!)


 それどころか、ゴロゴロと喉を鳴らして甘えてくる。

 可愛過ぎて、梨花の方が喜びに震えてしまう。


 チリン


 夜の空気を伝って、どこからか鈴の音がした。


 梨花は黒猫の首をたしかめるけれど、首輪も鈴も付けていない。


 黒猫はまるで誰かに呼ばれたように耳をぴんと動かし、すっくと立ち、歩き出してしまった。


(ああ……行っちゃった……。──あれ?)


 少し歩いては、梨花を振り向く。


(ついてこいって、言ってる?)


 しかし進む先は梨花の希望とは全くの逆。漫喫とも違う方向だし、何より人気のないほうだ。


 梨花がどうしたものかと逡巡していると、するりと足元に柔らかいものが触れた。


「ひゃっ」


 白い毛に混じって、虎のような黒い横縞の模様がある。見覚えのある、可愛い獣。


「コハクの──」


 加護、だと言っていたか。


(そういえば、名前は聞いていなかったわ)


 便宜的にあだ名をつけても良いだろうか。

 白いから、シロちゃんにしようか。


(おっと)


 早くこいというふうに、黒猫が尻尾を振っている。

 己のネーミングセンスの無さを嘆いている時間は無さそうだ。


 シロちゃんが、黒猫に駆け寄って、同じように梨花を見た。


「大丈夫だからついて行けってことね、わかったわ」


 そうして黒猫とシロちゃんの後をついて歩いた梨花は。


 何の変哲もない路地を曲がった時、瞬きするほどの間に、気がついたら見慣れたわが家(シェアハウス)の前に立っていた。




「帰ってきちゃった……」


 呆気に取られて呟く。

 ついに入り口が増えたのか。

 飛び降りなくても良い入り口が。

 喜びよりも、突然の事に、驚きが先に来る。


 思わず振り向いた先には、小川にかかった小さな橋。

 この橋をもう一度渡ったら、あの場所に出るのだろうか。


 この出入り口が臨時的なものなのか、常用できるものなのか、まだわからない。


 とりあえず今、試すのはやめておこう。

 せっかく、この子たちが導いてくれたのだ。

 今日はもう、お風呂に入ってゆっくり休みたい。


「道案内、ありがとう」


 そっと優しく、黒猫の頭を撫でた。

 この子が何者なのかはわからないけれど、今日のところは助かった。

 

 綿貫には、ああ言ったけれど。

 漫喫だって、空いていたかわからない。

 タクシーだって、つかまったかわからない。


 梨花の手をひとなめすると、ちりん、ともう一度音がして、黒猫はすうっと空気に同化するように溶け消えた。


 残されたシロちゃんは自分の番が来たとばかりに梨花のもとへ駆け寄ってきて、くるりと転がると、無防備にお腹を見せてきた。

 梨花が笑いながら柔らかいお腹をそっと撫でると──シロちゃんも、跡形もなく消えてしまった。


 もう少しいてくれてもよかったのに。と、手のひらに残った感触を惜しみながら残念に思う。

 ペットではないのは、わかっているけれど。

 長時間、姿を現すのは無理なのだろうか。


(冷静になってみると、わからないことだらけだ)


 この生活が快適過ぎて、忘れているけれど。

 この世界は、梨花の生まれた世界ではない。

 この世界がいつまで梨花のそばに寄り添ってくれるのか、保証だってどこにもない。




「ありがとう、と」


 スマホの画面を、梨花の指が滑ってゆく。

 部屋着に着替えて温かいゆず茶を飲んでから、綿貫に返事を打った。

 

 心配をしてメッセージまで送ってくれたのに、後回しにしたようで、なんだか申し訳ないと思う。


 あまり早くに返信すると不審に思われるかと思い、少し時間をあけて返信したのだ。


(新しい入り口は、綿貫くんの最寄駅かぁ)


 見つかったらややこしいことになりそうなので、しばらくは元の入り口を使ったほうが良いだろうか──。

 落ちなくても良い入り口は、とっても魅力的なのだけれど。

 どちらにせよ、もう一度使える通り道なのか否か、そのうち試してみようと、梨花は思った。



          ◇



「綺麗な人ですね」


「インターン先の部署の人に聞いたけど、仕事もかなり出来るらしいよ」


 遠巻きにした女性たちが、小声で囁き合う。


 朝からフロアは彼女──冨田茉莉花(とみたまりか)の話題で持ちきりだった。


 梨花は席につき、メールチェックするふりをする。タイミングをはかり、梶田と並んで部長に挨拶をする、噂の彼女をちらと見た。


 栗色の髪は華奢な肩でゆるく波打って、柔らかい雰囲気をまとう。

 その反面、目鼻立ちははっきりとして、力の満ちた目元が意思の強さを感じさせる。


 常務の一人娘である、という噂は、梨花の耳にも届いていた。

 教育係に梶田を指名したために、わざわざ本社ではなく、この支社に配属された、という噂も。


「美男美女でお似合いだなぁ! なっ!」


 悪気なく、近くにいた梨花に同意を求める課長。


 梨花にとっては容赦のない一言を、曖昧に笑って流す。

 

 課長だって、梨花と梶田の間の事は、何も知らないのだから、仕方がない。




(あ、やば。目が合った)


 美女の目力から逃げるように目を逸らしてしまったけれど、美女ときたら、本体ごとこっちに歩いてやってきたようだ。


 梨花は諦めて、顔を上げた。


 彼女の形の良い唇がにこりと笑って、梨花の名を口にする。


「初めまして。冨田です。嘉洋さん、ですよね」


 目が笑っていないのが迫力あるなぁ、と思いながら、梨花も口角を上げて挨拶を返す。


「はい。嘉洋です。初めまして」


 こちらだけ座ったままも居心地が悪いので、梨花は立ち上がり、話を受ける。


「嘉洋さんの昨年のコンペ企画、拝見しました。ずっとお会いしてみたかったんです」


「それは……光栄です。しばらくこちらにいらっしゃるんですよね。どうぞよろしくお願いいたします」


 無難なやり取りの後、美女は良い香りを残して、梶田とともに営業部へ帰って行った。


 帰り際、梶田だけが振り返って梨花を見た。


 またあとで。


 微かに動いた口元が、そう言った気がした。




「梨花さん」


 振り返ると、いつのまにやら隣の席に戻ってきていた綿貫が、神妙な顔をしていた。


「綿貫くん」


 仕事で何か行き詰まったのだろうか。

 どうしたのと聞こうとした梨花よりも先に、綿貫が心配そうに小声で言った。


「──あの美女に宣戦布告でもされました?」


「──ゴホッ」


 いまコーヒーを飲んでいなくてよかった。

 もし飲んでいたら、盛大にスーツに吹いているところだ。

 何も飲んでいないのに、むせてしまったではないか。


「ひ、人聞きが悪いわね、ご挨拶いただいただけよ」


 ふぅん、と、納得していない表情だ。


「帰る前、すごい圧でこっち見てたけど」


「身に覚えはないわ」


 少なくとも、梨花が彼女に何かした覚えはない。


「彼女も梶田さん狙いなんですかね──っとと。すみません」


「別に、謝らなくても」


 綿貫くんと気まずくならずにこんな話が出来るのは、ひとえに彼の自然な態度のおかげだ。


 振った振られたでその後の関係までギクシャクするより、よっぽど良い。





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