第60話
「おめでとー!」
「おかげさまです」
差し出された沙月のロックグラスに、梨花はジンジャーガフの入ったグラスをそっとあてて乾杯した。
「ままま、今日は私のおごりだからさ、ゆっくり飲んでよ」
「ありがとうございます」
上機嫌の沙月に、カウンターの中から美形のマッチョ店員が声をかける。
「珍しいわね、沙月ちゃんが後輩の女の子連れてくるの」
白シャツ店員の胸板は厚い。しかし彼の話し方は梨花よりも高い女子力を感じさせた。
「ふっふっふ。今日はお祝いなのだよ。可愛い後輩たちがついに縁をつないでだね」
「あらぁ。素敵な夜に当店をお使いいただき嬉しいわ。もう一方はどちらに?」
そう言ったのは、もう一人の店員だ。
こちらも鍛えられた体躯に、彫りの深い顔立ちのイケメンである。白シャツに黒エプロンが、まるでイタリア映画に出てくるバーテンダーのようで、とっても似合う。
しかしその口調はやはり、女子力高めなそれだった。
沙月はおつまみのナッツをつまみあげて、口を尖らせた。
「会食ですってよ。けっ。つまらない」
「お仕事ですから……」
微笑いながらフォローした梨花を、カウンターの中の店員ふたりがジッと見つめ、口々に言う。
「やだ出来た妻だわ」
「でも不満はその都度言わなきゃだめよ」
「いや、妻では。不満も特に……。彼女……って事だって、まだふわふわしてます。私なんかで良いのか……」
「何言ってるのー! 梨花ちゃんが良かったのよ」
ばしばしと梨花の背中を叩きながら、沙月はそう言うけれど。
「お嬢さんねぇ、相手は『自分なんかが』って1ミリも思った事ない人種だと思ってない?」
「え」
鍛えられた首を妖艶に傾げて言う店員の言葉に、梨花は自分の思考を省みた。
1ミリもは言い過ぎだけれど、そうかもしれない。
梶田は仕事ができて、かっこよくて、人に囲まれていてーー。
梨花が隣に並んだとして、釣り合いがとれるのだろうかと、思う時もある。
沙月はロックグラスを揺らしながら、たしかに、と頷いた。
「ああ……。梨花ちゃんさ、自分の事になると、時々ちょっとネガティヴよね。いや、それが悪いわけじゃないんだけど。なんていうかーー目が曇って、まわりがよくみえなくなるから。そういう時って」
「あらぁ。誰だって、自信をなくす事なんてあるわよ。表に出すか出さないかだけよ。ジンちゃん、言ったげて、アドバイス」
「任せてゴンちゃん。初対面でズバズバ言うけどごめんなさいね。そういう自虐ネタ言ってる娘ほどね、ちょっとしたことで相手に幻滅したりするのよ。
自分を褒めないーー自分に厳しいということはね、裏を返せば心の中では相手にも厳しいの。もう少し肩の力を抜いて、自分にも、まわりにも、ハードルを下げてあげなさい。
どんな王子様だって、クソもするし鼻毛も生えるわよ?
凝り固まった頭がすぐに柔らかくなるなんて思わないけどさー?
だめな自分を積極的に許しなさい、それは相手を許す事に繋がるし、自分の余裕にもつながるわ。
や、人として道を踏み外したらそれは叱ってあげないといけないし、怠惰とはまた別の問題だわよー?!
でもそうじゃないなら、自分が選んだ人と許しあいながら生きていくのは、素敵な事よ」
「なるほど……肩の力を抜いて……」
梶田に幻滅する自分は想像がつかないけれど、梨花自身に完璧主義なところがあるのは否めない。
それは自分に対してだけだと思っているのだけれど、無意識に相手に対して完璧を求めないように気をつけねば。
「良いこと言うでしょおー? こんな良いこと言うのにね、もう3年も独り身なのよね、ジンちゃん」
艶っぽく指で頬をなぞり、ため息をつくゴンちゃん。
ジンちゃんは片眉をあげて反論する。
「うっさいわね、舞台裏をバラすんじゃないわよ。アタシは運命を待っているだけよ、手近な相手で妥協しないだけ」
とりあえず、お二人の仲が良いということはわかった。
「まぁまぁ、オネエさんがた、のも。今日はのもーよ」
と、沙月。
「そうね、今日はおめでたい日だったわ。リカちゃんも彼氏できるのは久しぶりなの?」
「そう……ですね。ちゃんとお付き合いするのは初めてかもしれないです」
梨花の告白に、カウンターの中で、屈強なオネエさん方が顔を見合わせた。
「アオハルね」
「アオハルだわ」
くぅ〜っ、と、沙月が喉の奥から声を出した。
「今日は酒が美味いわ。ジンちゃん、ネグローニ作って」
「度数30%の初恋カクテルね……! 沙月ちゃん、流石の酒飲みチョイスよ」
ジンちゃんが女子高生のようにきゃっきゃとはしゃぐ。
「梨花ちゃんにはカンパリオレンジかな」
沙月の注文に、ゴンちゃんが頷いてグラスを手に取った。
「そっちも『初恋』ね、良いわね」
カンパリオレンジは知っている。が、沙月の頼んだネグローニとはなんだろう。
きょとんとしている梨花に、ゴンちゃんが片目を瞑ってみせた。
「カクテルにはね、花言葉のように、カクテル言葉ってのがあるのよ」
◇
「うそぉ……」
ほろ酔いだった気分が、一気に冷めた。
終電まではまだ余裕がある。と、思っていたのに。
沙月とは、使う路線が違うので、店の前で別れた。
ひとり駅に向かって歩きながら、駅前の人の流れが滞っているのを見て、嫌な予感はしたのだ。
駅に近づくにつれ、声を張り上げる駅員の言葉が、梨花の耳に届いた。
「すみません、人身事故でーー」
復旧の目処は立っていない、とか、現場検証がーーとか。
不穏な言葉を聞いただけで、なんだか気が滅入った。
さっきまで、とても楽しい夜だったのに。
ちらりと見たタクシー乗り場も、長蛇の列だ。
仕方ない、久しぶりに漫喫にでも行くか。続きを読みたい漫画もあったことだし。
そう思って、駅を背にして歩き出そうとした時だった。
「あれ、梨花さん」
「綿貫くん」
声をかけられ振り返ると、スウェット姿の綿貫がレジ袋片手に立っていた。
なんだかいつもと違うなと思ったら、いつも見えている形の良い額が見えない。前髪が下りているのか。
「電車、止まってるんですか?」
と、綿貫は駅の方を見やって言った。
「そうみたい」
数秒考え込んだ後、綿貫が遠慮がちに提案した。
「……うち、すぐそこですけど。始発動くまで、うちにきますか?」
「え、大丈夫」
瞬時に断ってから、慌ててフォローを入れる。
「いや、信頼してないとかじゃなくてね?!」
苦笑しながら、綿貫は頷いた。
「わかってますよ。警戒ゼロも悲しいけど」
「明日は休みだし、タクシーが捕まらなかったら、漫喫にでも行くよ。ありがとう」
◇
さっきはすぐ引き下がってしまったけれど、やはり夜中に女性ひとりで帰すべきじゃなかったかな、と綿貫はひとり問答した。
ほんのり頬の赤くなった、梨花の顔を思い出す。
受け答えも普通だったし、深酔いはしていないふうではあったけれどーー。
お酒のせいか少し目が潤んでいて、いつもよりも守ってあげたい気持ちになった。
立ち止まり、2秒の逡巡。
自宅はもうすぐそこだけれど、レジ袋の中のアイスも溶けてしまうかもしれないけれど。
やっぱり戻ろう。
綿貫は踵を返した。
さっきまでの倍の速度で歩きながら、ついさっき見送ったばかりの背中を探す。
しばらく探して、見つからなかったら諦めよう。
そう思っていたけれど、思いの外、早く見つかった。
ゆっくりと歩く、梨花の後ろ姿は、声をかけるにはまだ遠い。
見失わないように後を追いながら、綿貫は不思議に思った。
漫喫のある方でもない、タクシーのよくいる大通りでもない、人通りの少ない路地に、彼女の背中はひとり吸い込まれていったから。
見た目よりも酔っていたのだろうか。大丈夫だろうか。
彼女が曲がった角まで追いつくと、綿貫は足を止めた。
「ーーあれ?」
見失った。
長い路地の先まで抜けるには、梨花の歩調だともっと時間がかかると思ったのに。
路地を早歩きで抜けて、反対側に出る。
飲み屋が並ぶ昔ながらの通りだった。
どこにも、彼女の姿は見えなかった。
「もう着いたから大丈夫よ。ありがとう」
心配して送った綿貫のメッセージに、梨花からそう返ってきたのは20分後だった。
「早。梨花さん、家近いのかな」
そう呟いた自分が寒くなって、綿貫はスマホをベッドに投げた。
「やめよ。ストーカーみたいじゃん、俺」
そもそも、自宅に帰ったとも限らないのだし。
脳裏に、ちらりと営業トップの顔が浮かんだ。
「あー」
抱えた膝に頭をつける。ひとり相撲も良いところだ。
「かっこ悪。全然吹っ切れてねぇじゃん」