第59話
お目当ての喫茶店が入っているのは、レトロな外観の商業ビルだった。
ギリシャやローマ風の意匠をまとった、太い柱。重厚な雰囲気の建築物。
梨花がじっくりと時間をかけて見上げていると、これは、と梶田が説明してくれた。
「昔の銀行を改装した商業ビルだそうです」
「なるほど」
年代物の建造物。嫌いじゃない。むしろ好きだ。
一階には喫茶店と家具店。上には雑貨屋や美容室なども入っているらしい。
喫茶店の扉を押し開けると、どこか懐かしいベルの音が響いた。
店内には、いまではなかなかお目にかからない、レコードのBGMが流れている。
年季の入った建物であり調度品だけれど、手入れが行き届いていて、なんだか品格のようなものまで感じ取れる。
自然と梨花の背筋が伸びた。
「いらっしゃい」
そう声をかけてくれたマスターは、ロマンスグレーの髪をオールバックにした初老の男性だった。
梨花と梶田は、奥のテーブルに座って、それぞれコーヒーとシフォンケーキを注文した。
梨花はプレーンのシフォンケーキ、梶田はキャラメルソースのかかったシフォンケーキを。
「俺ね、あんまり恋愛に執着したことがなくて」
梶田の自嘲するような言葉に、ふっと、梨花は真顔になった。
(それはつまり、いつ、気が変わるかわからないということ?)
「うん。絶対、勘違いしてるよね、その顔。最後まで、聞いてね」
と、梶田は苦笑している。
どうやら、ずいぶんと正直に感情が顔に出ていたらしい。
いつぞやのキョーコの真似をして、梨花はほっぺたをむにむにと揉んだ。
「すみません、付き合う前から終わりの話かと思いました。いつもこんなに先走ったネガティヴ発動はしないんですけど」
(根っからのネガティヴに変わりはないけれど、話はちゃんと聞くネガティヴだったはずだ)
「そっかぁ。いつもと違う梨花さんになるくらい、俺を必要としてくれてると思っておくよ」
冗談めかして言った梶田に、梨花は大真面目な顔で頷く。
「さすが梶田さん。そんなセリフも似合いますね」
梶田はこらえきれずに吹き出した。
「ぶはっ。こいつ何言ってるんだって、馬鹿にしてる顔」
「してないです!」
「あー、もー、楽しいね。ごめんごめん。いやね、俺……好きな人を他のやつに譲りたくないって思ったのが、初めてで。今回においては譲るどころか、まずはこっちを見てもらえるように時間をかけていくつもりだったから、今日はびっくりしてる。梨花さん本人に、自分の気持ちがこうして話せるのが楽しいよ。いや、この時間がそもそも楽しくて、いっそ話題はなんだって良いのかもしれないけど」
「……とっくに、見てました」
どうしてこんなぶっきらぼうな言い方しか出来ないのかと、梨花は自問自答した。いつだって、恥ずかしさが可愛げの邪魔をするのだ。
「うん。俺、どうも勘違いしてたみたい。梨花さんの中には俺と違う人がいて、でもいつかその人の事を忘れられたら、俺の方を向いてほしいって思ってた」
誰のことだそれは。
まさか課長じゃないだろうな。
あるとしたらーー綿貫くんのことだろうか。
「えっと、だ、だれの話です?」
動揺のあまり噛んでしまった。
うーん、と、バツが悪そうに頭を掻く梶田。
「ごめんね、待ち受けの写真を見ちゃってさ。わざとじゃ、ないんだけど」
「待ち受け」
「ほら、給湯室に忘れたスマホを届けたときに」
「ああーー」
綿貫くんでは無かった。
すん、と真顔に戻る梨花である。
あれのせいか。
そうか、あれのせいで。
確かに、あの写真には顔の良い男の子が写っている。
写真だから、小学生のような身長もわからない。
顔だけ見たら、コハクは大人に見えるだろうし、実際は梨花よりもずいぶんと歳をとっているのだろうと思う。
ただし、人間じゃ、ないけど。
まつに「三柱も写ってるんだから、ご利益マシマシよ!」と、言われたあの待ち受け。
実際には、ご利益どころか、勘違いを生んでいるではないか。
彼女らの「自撮りしてみたい」というお願いを聞いた見返りだと、「待ち受けにしたら、へたなお守りより効くわよ♡」と、まつに勝手に設定されたのだった。
人ならぬ存在のくせに、何故あんなにスマホの扱いに精通しているのだろうと、梨花は思い出して笑ってしまった。
毎日毎日やってきては写真を撮る、観光客の姿を見て覚えたのだろうか。
そういえば、まつとは別れ際に「彼によろしく」と言われていたのだった。
説明はできないけれど、きっとこの写真は彼女らにつながっている。
いまもどこかで、見ているのかもしれない。
(ご利益があるってことは、そうだよね、まつさん?)
ふぅ、と一息ついて、梨花は笑った。
「私の、大切なお友達です。みんな。梶田さんの話もしましたよ。よろしくって、言ってました」
「そうか。うれしいな。いつかご挨拶できるかな」
「いまは遠いところにいるんです。とても。でもいつか、きっと」
そっか、と、梶田は呟いた。
目を細めて、その時を思い浮かべるように少し笑った。
「いつかを、楽しみにしとく」
「ブレンド、お待たせしました」
流れるような所作で、マスター自ら、コーヒーをサーブしてくれる。
続いて並べられたのは、ふわふわのシフォンケーキ。
薄くクリームをまとったそれは、幸せのかたまりのようにお皿の上で鎮座する。
添えられているのは絞った生クリームとミントの葉、そして小さな丸いバニラアイスクリーム。バニラビーンズシードの黒い粒が、そばかすのようで可愛い。
梶田のものには、キツネ色のソースが細く芸術的にかけてある。
どちらもとても美味しそうだ。
「美味しそう。いただきます」
「いただきます。んー。やっぱり美味い」
シフォンケーキをひとくち頬張って、梶田は相好を崩した。
梨花もふわふわのそれをフォークですくって、ぱくりと食べる。
(うん、美味しい!)
生地もクリームも甘すぎず、それでいて風味豊か。
とても軽くて、口の中でとろけるようだ。
しばらく食べ進めたあと、口休めにコーヒーを。
(コーヒーも、美味しい。すっごく好み)
ひきたての豆の香りがしっかりとする。フルーティで、雑味が少ない。
ひとしきり幸せを堪能したあと。
カップの中の黒い水面を、梨花はじっと見つめた。
「私、自分はこっち派だと思ってました」
「ん? コーヒー党?」
「うん、飲むのも好きです。でも、その話じゃなくて」
何と言ったら伝わるかな。
頭の中で、しばし考える。
梶田だったら、この無言の時間も待ってくれるという信頼があるから、慌てずに自分の考えを整理できる。
「……そっけなくて、着飾らなくて、ちょっと苦くて、好む人を選ぶ感じ。なんか、自分ぽいなって」
対照的に、例えば雑誌の中で微笑むような女子力の高い人種は、デコレーションケーキみたいなものだとして。
「でも、梶田さんの隣にいる時だけ、こっちになります」
梨花はシフォンケーキの皿を、両手で少し持ち上げて見せる。
「ちょっとだけ甘くて、ふわふわで、他のケーキに比べたら地味だけど、自分なりにおしゃれしてる。……選んでもらえるように」
そんな事を真面目な顔で言ってみたら、梶田の顔がまた耳まで真っ赤になっていた。
おそらく同じく真っ赤であろう自分を棚に上げて、梶田の事を可愛いなどと思う。
そんな自分が。いまだ自分でも知らなかった一面があったのだと、梨花は思った。
参ったというふうに額に手をやり、梶田は梨花を見た。
「梨花さんーー。それはもう、返事だと思って良いよね?」
「はい、いいです」
またしても、ぶっきらぼうな言い方になってしまった。
だって、仕方ないじゃないか。
好きな人の前で平静でいられるほど、恋愛感情は甘くない。
「……ちょっと待ってね」
そう言い置いて、梶田はカウンターの奥にいるマスターのところまで歩いて行った。
かと思えば、すぐに新しいフォークを持って帰ってきた。
「ちなみにだけど」
と言って、席に戻った梶田は自分のシフォンケーキをひとすくいとって、梨花の前に差し出した。
「俺にとっては、梨花さんはずっとこっちだよ」
梨花はフォークを受け取り、キャラメル味のシフォンケーキを口に運ぶ。
「……美味しい」
「でしょ」
屈託なく笑う梶田。
それは甘くて、ふわふわで、ほんのり苦くて。ーー忘れられない味がした。