第56話
ーーたん、たたん
梨花は小さな窓から、次々と落ちる雨粒を見ていた。
雨の音を聞くと、そちらに意識がひっぱられる。
激しい雨は苦手だけど、静かな雨の音はむしろ好きだ。
雨音のリズムに合わせて、心がゆっくりと息をする感覚にひたれるから。
「ーー迷子みたいな顔してる」
梨花の顔を覗き込むようなしぐさをして、コナが言った。
コナの店の二階。テーブルをはさんで、ふたりは座っていた。
「……そう?」
「何かあった?」
と、首を傾げるコナに、梨花は下を向いて、歯切れ悪くこぼす。
「あったというか、これからというか」
なんといったら伝わるのか。
どう言葉を選んでも、なんだか違うニュアンスになってしまいそうで。
梨花はしばし悩んだあと、諦めて質問を返すことにした。
「コナはさ、好きな人、いるの?」
そう問うと、コナの顔がぱぁっと明るくなった。
「いるよ! パートナー」
弾む声と、こぼれる笑顔。その表情だけで、相手のことをどう想っているのかがわかる。
「どんな人? どうして好きになったの?」
「えー? 恥ずかしいなぁ。うーん。気づいたら、だよ。一緒に過ごす時間がふえて、それでも自然な自分でいられたというか」
「自然な自分、かぁ」
「ああ、でもそうだなーー。ちょっと違うかも。自分らしく、変わらずいられると、思ったんだよ。でもそれは間違いだった」
「えーー」
どういうこと? と目で問いかける梨花に、コナはシシッと笑って言った。
「いつのまにか、一緒にいることが当たり前になってた。すごく自然に、そんなふうに変わってた。彼と一緒にいない自分が、想像できないくらいに」
「彼と一緒にいない、自分……。そうかぁ」
なんだか梨花の方が照れてしまい、机に突っ伏した。頬がひんやりして、気持ちいい。
「なぁに、さては例の彼と進展があったのー?」
楽しそうな、コナの声。梨花は顔を上げて首を振った。
「ううん、全然。好きだって、自覚はあるんだけど。次の一歩が、怖い」
こんなに素直に言えるのは、コナが異世界の住人だからだろうか。
梶田とは絶対に交わらない、異世界の。
梨花は自分の言葉を、胸の中ではんすうした。
そうだ、怖いのだ。ずっと。心地よい関係性が、変わってしまうことが。
ーーたん、たたん
梨花は窓についた雫を数えた。
五をこえたところで、あとから降ってきた大粒の雨に上書きされる。
雨が降っても、いつか空はまた晴れる。
でも変わってしまった関係は、もう元には戻らない。
◇
ピコン
音と共に、枕元で小さな画面が明るくなる。
今朝のことだった。
スマホの通知が鳴ったのは。
寝ぼけ眼でスマホのロックをはずし、メッセージを開きーー目が覚めた。
梶田から、モーニングのお誘いだった。
ーー魯肉飯とチャイの美味しい店見つけました!
ーー週末、モーニングいかがですか? モーニング部員より
そんな他愛ないメッセージに、一喜一憂する自分がいる。
布団の上で正座して、時間をかけて返事をかく。
冷静になれと、自分の中で理性が囁く。
しかし、無理な話だ。
うるさいくらいの心臓の音すら、梨花の思い通りになんてなってくれない。
◇
「いいじゃん! デート楽しんでおいでよ」
コナの言葉に、うーん、と頭をかかえてしまう。
贅沢な悩みだと、自覚はあるのだ。
「告白、しようかとも思ったの。でも、失敗、したら」
きょとん、と、コナは目を丸くした。コナの思考とシンクロするように、しっぽがゆらゆらと揺れている。
「よくわからないけど、失敗したら、すべてが消えてなくなるの?」
あっけらかんとした物言いに、今度は梨花が目を丸くした。
「えーー。なくなりはしないけど、断られたら……。気まずくない?」
「そーお? 何度でもやり直したら良いじゃない。少しずつ成功に近づくよ。そもそも、なんで断られる前提なのよぉ、嫌いな子を誘ったりしないって」
「うーん、ほら、嫌いではないけど友達どまりとかさ? もし奇跡的に付き合ったとしても、何か違うかったって思われたら、とか、ぐるぐる考えてしまって。今のままのほうが、むしろ良いのかもって」
「えぇ〜?! そんなの、そうなってから考えたら良いよ」
梨花は心配しすぎだよ、とコナは言う。
「うーんと、そうだなぁ」
コナは宙を見て考え込む。しっぽだけが、ゆらゆらとバランスをとっている。
しばらく考えたあと、コナはゆっくりと話し出した。一つ一つ、言葉を選ぶように。
「……かたちがないから、つかみにくい。思ったようにも動かない。
それが、人の気持ちでしょ?
伝えないと、絶対に、伝わらない。
そんなつもりじゃなくても、勘違いされる事もあるよ?
だから、精一杯伝えるんだよ!
やるだけやったらさ、後悔しても、清々しいじゃない?
ーーきっとさ、カヨだったら、そう言う」
コナは立ち上がって、背後の棚を開く。
「もとのままのかたちも、きっと良い物なんだろうけどさーー」
白い手袋をつけて、棚の中から、桜模様の湯呑みを取り出した。
コナの手でそっと机に置かれた湯呑みは、欠けていたところが修復されている。
梨花のイメージする金継ぎよりも、もっと白っぽく、柔らかい色合いの素材が使われていた。
こちらの世界の、素材なのだろうか。
(まるで桜にかかる霞が、太陽に輝いているみたい)
梨花の顔を見、にやりと笑って、コナは言った。
「新しいかたちは、お嫌いかな?」
ううん、と梨花は首を振った。
一目で、気に入ったのだもの。
「とっても、素敵だわ」