第55話
パソコンのモニターの電源をつけたとき、右肩をぽんと優しく叩かれた。
「おかえりなさい」
「あっ、沙月さん」
振り返ると、そこにいたのは先輩の沙月だった。
にこにこと笑顔の沙月は、手に持った書類をひらひらと揺らし梨花に見せた。
「梨花ちゃん、この書類なんだけどさーー」
「あ、はい」
文面に視線をやり、おや、と梨花は首を傾げた。
「? 沙月さん、この書類は先月のーーわわっ」
ぐいっ、と肩に腕をまわされ、椅子の上でバランスを崩しそうになる。
一体どうしたのだろうと思っていると、押し殺した声で沙月が言った。
「これはダミー。ねぇ、ダークホースが登場したの?」
「はいぃ?」
何のことだかさっぱりだ。
沙月は手に持った書類で、机の向こうを指し示した。
「あれよあれ。あの若い子。ああいうのが良いの?」
その先にあるのはーー課長と話す綿貫の姿。
課長のことを言っているのでなければ、綿貫の事なのだろうな。
「ちちち、違いますよっ! ランチに行ってただけですって」
一緒に出ていく姿を、見られていたのだろうか。
まぁランチくらい、課長とだって行ったこともあるけれど。
「梨花ちゃんたら、梶田君というものがありながら……」
と、しなをつくる沙月は、完全におもしろがっている。
大好きな先輩だけれど、こと恋愛事をかぎつけるとテンションが上がるのはやめてほしい。
「それも違いますしっ!」
そんなに強く言ったわけではないのに、沙月がぱっと手を挙げて離れた。
「あ、ごめんね」
と言う沙月の視線は、梨花の頭を通り越して、もっと上の方を見ていた。
「え?」
振り返ると、なんとそこに梶田が立っているではないか。
(いつから?!)
驚きで言葉が出てこない。
梨花が金魚よろしく口をぱくぱくさせていると、梶田はバツが悪そうに手に持ったスマホを差し出した。
ーー梨花の。
水色のスマホケースには、少し前に気に入っていた、ゆるキャラのストラップがついている。これを見て梨花のものだと判断したのだろう。
「あ、お取り込み中のところすみません。スマホ鳴ってたんで、お届けした方が良いかなってーー」
と、梶田が言う。
さっき、給湯室でお湯の補充をした時に、置き忘れたらしい。
「あっ! ありがとうございます!」
梨花はスマホを受け取り。着信を確認して、かけ直すので失礼しますと断って、その場を離れた。
◇
「なんかごめんね、あのセリフはただの脊髄反射だと思うわよ」
梨花の背中を見送った後、沙月は梶田に声をかけた。
「や、そっちは気にしてないんですけど。待ち受けの写真が、咄嗟に、目に入っちゃって。うーん」
どうしたものかな、と、顎を触る梶田に、問いかけの視線をむける沙月。
「?」
「待ち受け。梨花さんと、シルバーっぽく染めた髪の、若いイケメンが写ってました。なんか音楽とかやってそうな」
複雑そうな顔で言う梶田。誰なのか気になると、その顔に書いてある。
「二人だけの写真?」
「いや、なんか着物の美人と、女の子とーー」
「親戚とかじゃないの?」
もっともらしい沙月の予想も、梶田を納得させるには弱かったようだ。
「ですかね……。あ、わざとみたわけじゃ」
「わかってるわよ」
そうねぇ、と沙月は呟いた。
何か思いついたようにニンマリとする。
「ねぇ、スッキリする方法、おしえてあげようか」
期待のこもった梶田の視線に胸を張って、沙月は言葉を続けた。
「告白する。うまくいったら万々歳だし、うまく行かなくてもスッキリしない?」
がっくり、期待外れだと言わんばかりに、梶田は首をたれた。
「前半のみ同意します」
「思い切りが無いわねぇ」
「ほっといてください」
「いつまでも、まわりがほっといてくれるとは限らないわよ」
そう言う沙月の目線の先を、梶田もまた捉えていた。
「あぁ、ですね」
綿貫、といったか。若手の中でも、上司たちの覚えの良い彼。梨花と一緒にビルに入るところを、梶田は見ていた。
おおかた、ランチにでも行っていたのだろう。
同僚とランチくらい、誰だって行く。
そんなことで心乱される自分がいるだなんて、認めたくは無いけれど。
「ーー仕事に戻ります」
そう言って歩き出した梶田の背中に、沙月は呟く。
「まったく、真面目ねぇ」
◇
今日は定時上がりだったから、買い物をして帰ってきた。と言っても、お米や野菜は大半が大家さんからの支給なので、大した量の荷物ではない。
荷物をキッチンに置いて、着替えの為に自室に戻る。
スーツから部屋着に着替えながら、ひとりごとが口からこぼれた。
「ああ、そうだ。明日ーー」
最近、休日は予定が入っていたから、後回しになってしまっていた。
でも、そろそろ。受け取りに行こう。
おばあちゃんとお揃いの、桜模様の湯呑み茶碗。
「コナ、いるかな」
突然行っても良いよと、コナは言ってくれていたけど。やっぱり一言断りを入れてからのほうが、梨花の性には合う。
「……ーーあした、湯呑み茶碗を受け取りに行くね。……っと」
メモ用紙にしたためて、小さく折る。
折った手紙を、水色のガチャガチャカプセルの中に入れた。
つい可愛くて課金してしまった、ゆるキャラストラップが入っていたもの。
なんとなく捨てずに置いていたカプセルが、まさかこんな使い方をされるとは。
カプセルだって、驚いていると思う。
襖を開けて、暗く続く階段の上に、それを投げた。
暗闇に吸い込まれたカプセル。
音もなく、文字通り消えていった。
「これで、よし」
そっと襖を閉じ、キッチンへ向かう。
晩ごはんの段取りを考えながら、お湯を沸かして、マグカップを棚から取り出した。
まずはミルクたっぷりのカフェオレでも飲んで、ほっこりしよう。
考えることが、たくさんあるから。




