第54話
「そんな、大した事は、何も」
「そんなもんです、人が救われる瞬間って。大袈裟な事だけじゃ、ない」
ふふっと笑う綿貫。
その表情に、背中を丸めて消え入りそうだった男の子の面影は、微塵もない。
「そうそう、その時、梨花さん、アジフライには醤油がいちばんだと力説してましたよ」
「そうだっけ……」
懐かしそうに話す綿貫の言葉に、梨花はぱちぱちと瞬きをした。
言われてみれば、そんな気がしないでもないけれど。
というか、誰かとアジフライを食べる時には毎回言っているかもしれない。
綿貫は、覚えていたのか。
一度食事しただけの、梨花の顔まで。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「元気になってから、礼を言いに行ったんですよ? そしたら、てっきりそこの店員さんかと思ってたのに、お客さんってわかって。しかも引っ越したからなかなか来ないよって」
「ああ、うん」
仕事が忙しくなったのもあり、なかなか顔を出せずにいた。
「もう会えないかと思ってたのに、社内報で見て、びっくりしました」
「ああ、新入社員向けのメッセージ……」
総務部の同期に懇願されて、受けたのだ。
梨花の人生で最初で最後であろうインタビュー。
「あれ以来、俺もアジフライには醤油派です。人生でいちばん美味いアジフライだったから」
目の前で笑う綿貫はとても穏やかで、人好きのする表情を浮かべる。
何も知らなければ、恵まれた人生を送ってきた青年に見えただろう。
どんな過程を経て、いま現在に至るにせよ、本人の努力の積み重ねがあった事は想像に難くない。
「……立ち直った?」
「はい。すっかり」
「よかった」
あの時呼び止めたのは、ただの自己満足だ。
そのまま声をかけなければ、後になって、もしかしてという気持ちがむくむくと育ったであろうから。その後の便りを知りようもない彼が、人知れず倒れたりする姿を想像して、それが梨花の杞憂であったとしても、やきもきしただろうから。
少し未来の自分自身の、不安と心配の芽を摘み取っただけだった。
そんなに感謝されると、かえってなんだか居心地が悪い。
とりあえず食べようかと、醤油を少しかけた。箸をとり、アジフライを持ち上げる。
少しだけ冷めてしまっているのに、なんだかいつもより美味しい気がした。
食後の緑茶を飲みながら、ひと息ついた。
そろそろ会社に戻った方が良いかなと、腕の時計をちらりと見る。
「梨花さん」
「はいーー」
「好きです」
お会計しましょうか、くらいの気軽さで、綿貫はそう口にした。
「ひゃいっ?!」
思わず奇声を上げた梨花を、変わらずにこにこと見ている。
なぜ梨花だけがこんなに動揺しているのだろうか。
思わず周りを見回してしまった。
まわりの人々は自分たちの食事や会話やスマホに夢中で、こちらには気も止めておらず、少しほっとする。
「え、それはなんていうか」
弱った時に優しくされた、刷り込みではなくて?
謙遜してそんな事を言ってしまいそうになり、すんでのところで飲み込む。
綿貫の気持ちは綿貫だけのものである。梨花にだって、綿貫の気持ちを否定する権利などないのだ。
「いや、ごめんなさい」
そう言ったのは梨花ではなく綿貫で、
(え、私、答える間もなくフラれた?)
と、混乱の極みだ。
「ドッキリ?」
と、訝しみながら聞いてしまった。
綿貫はハッとした顔の前で、ぶんぶんと両手を振った。
「いや、違います! ふざけてるわけじゃなくて! 困らせたいわけじゃないって意味の、ごめんなさいというか。俺は見返りを求めてるわけじゃないんです。梨花さんのことを想ってる後輩がいるって、知っててほしかっただけで」
あ、はじめて動揺したな、綿貫君も。
そう思って、一気に肩の力がぬけた。
「うん。わかりました。ありがとう。気持ち、嬉しいよ。本当に。あの時の彼が、こうして元気でやってるんだって、教えてくれたことも、嬉しい」
綿貫は、眉を下げて笑う。
「正直、迷ったんですけどね。ローテーションが終わったら、どこに配属されるかわからないし。ここだったら会社の人もいなさそうだし。このチャンスを逃したくなかったんです。それにーー」
「うん?」
「梨花さんには、梶田さんがいるから。わかってて、それでも言いたかっただけなので」
「ななな、なんでここで梶田さんが」
「え、梨花さん、好きですよね?」
「え、いや、え?」
「好きですよね?」
「ええ、ほら、その」
綿貫の圧が、梨花を追い詰める。
困らせたいわけじゃないといったその口で、なかなかに詰めてくるではないか。
むう、と口を尖らせたら、とっても嬉しそうに吹き出された。心外である。
「冗談です。言わなくていいです。あ、俺がそう思ってるということは冗談ではないですけどね。梨花さんの口からその言葉を聞くのは、俺じゃなくて梶田さんですから」
「はい……」
痛いところをつかれたような気分で、思わず言ってしまった。
「ははっ、認めるんですか」
綿貫は本当に楽しそうだ。
梨花は頭を抱えた。
「もう、先輩をからかわないで。威厳も何もあったもんじゃないわ」
「そんな事ないです。俺はきっと一生、梨花さんに頭が上がりません」
「そんなこと……」
「あ、梶田さんよりは出世するつもりで仕事は頑張りますけどね?! 俺がいくら出世しても、梨花さんはいつまでも大切な先輩ですからね、ピンチの時は職権濫用しても馳せ参じますからね、安心してください」
「職権濫用はしちゃだめだよ」
「大丈夫、法は守ります」
「もう」
「梨花さん」
「はい」
「幸せ、つかんでくださいね。つかめなかったら、俺が捕まえますけど」
「……肝ニ命ジマス」




