第53話
美味しそうなアジフライを前に一旦箸を置き、梨花は口を閉じて思案する。
どんな可能性があるだろうか。
たとえば、幼馴染。
綿貫のような幼馴染が……いや、いないな。
転勤族とまではいかないが、子供の頃に引っ越しは経験している。
少ないながらも、それぞれの土地で、仲の良いご近所さんはできた。
しかし近所に住んでいた馴染みの子は、誰も女の子だ。
たとえば、昔同じクラスだった。
浪人や院卒や海外留学など、学年が同じでも入社時期が違うことだってありえるだろう。
机を並べていたのが何十年も前なら顔も変わっているだろうけれど、どこかに旧友の面影はないかと綿貫の顔をじっと見つめる。
うん、絶対に年が違うな。
梨花とは、肌のハリが違うもの。
たとえば、親戚の子。
いまでは行き来もなくなったけれど、おばあちゃんが存命のころはまだ多少の親戚付き合いもあったのだ。
遠い親戚の子供が、彼という可能性はーー
(ま、違うよね)
それならそうと、もっと早く言うだろうし、綿貫という姓に覚えはない。
「降参。教えて」
梨花は両手をあげた。
ふふっと笑って、綿貫は懐かしそうに遠くを見る。
「地方から東京の大学を受験して……上京したばかりの頃、定食屋に入ったんです」
「ほうほう」
「その日、俺、誕生日だったのに、朝から最悪で」
「うん」
「いや、その頃はもうずっと、いろいろ最低で。メンタルやばくて。食欲も無かったんだけど、何か食べないと本当にダメになりそうで。通りがかった店から良い匂いがしたから、ふらっと入ったんです」
「あーー」
「入ってすぐ、注文する前に、財布を持ってない事に気づいて。慌てて謝って出ようとしたら、可愛いお姉さんに止められて」
「あああ?!」
思い出した。
「あそこでしょう、『まさや』!」
梨花は勢いあまって、綿貫のほうに指をさしてしまった。
すぐに恥入り、膝の上に手をしまう。
綿貫は笑って、誰かのセリフを真似して言った。
「おいしくて、参ってしまう」
◇
ーーーー彼と会ったのは、偶然だった。
たまたま、まとまった休みをとって、のんびりしていた日だったのだ。
学生時代、梨花は大学の近くの部屋に間借りしていた。
気のいい夫婦がオーナーの物件で、一階は夫婦が営む定食屋、2階には夫婦の住居、3階を下宿人に貸していた。
梨花がその部屋を出たのは、新卒で就職した時。
会社に近い谷底アパートに引っ越した後、その日がはじめての訪問だった。お世話になった夫婦のところに、近況報告をかねて食事しに来たのだ。
食事をしにきただけのつもりだったのだけれど、どうも旦那さんの顔色がおかしい。聞くと持病の椎間板ヘルニアが再発してしまい、腰の痛みで思うように動けないという。
そんなことを聞いてしまって、そうですかで終われる性格の梨花ではない。
梨花は、ランチタイムの間だけでも手伝うと申し出たのだった。
13時をすぎて、スーツ姿の客たちがぞろぞろと帰っていった頃だった。
ガラリと戸が開いて、高校生くらいの男の子が入ってきた。
彼は敷居を跨いですぐに、ジーンズの後ポケットを触り、顔色を変えた。
もともと悪かった顔色に、慌てたような色が混ざったのを、梨花は見逃さなかった。
「すみません……」
小さくそう言って出ようとする背中にかけ寄り、思わず手をつかんでいた。
彼が、そのまま消えそうに見えてしまって。
「試食……しません?! アジフライ好き?!」
何か食べさせなければ、道端で倒れるのではないか。
そう思って引き留めたのだけれど、頭の中にあったのは昼の賄いのアジフライの事。そのまま、口から出てしまった。
試食というのは、気を使わせないために捻り出した方便だ。
「え、好き……ですけど、あの、すみません、俺、財布忘れてしまって」
「大丈夫、試食だから! 他のお客さんもいないし、今!」
「え、あ」
「とりあえず座って!」
戸惑う男の子を、半ば強引に座らせたのは覚えている。
しかし、彼の背格好までは、全然覚えていなかった。
◇
「梨花さん、俺が顔色悪いから、食べられるならとにかくご飯食べろって、奥さんとふたりでいろいろ出してくれて」
「途中から、みんなで賄い食べたのよね」
「見ず知らずの他人の話を、皆真剣に聞いてくれて」
「そうだったね……」
「おいしくて参ってしまう、ですよね」
「言った! 言ったわ……。あれから私すごく反省したのよ、悩んでいる人にうんちくなんて語ってって」
◇
彼の前に、アジフライの乗った皿を置いた。
弱々しく箸をとって、しかし礼儀正しく「いただきます」と手を合わせて言う男の子。
(食べる力があるなら、大丈夫)
彼の様子をうかがいながら、梨花は言った。
「……アジって、名前の由来には諸説あるらしいんですけど。『おいしくて参ってしまう』から、魚に参って書くって説もあるんですよ。だから、なんていうか、参っちゃうくらい美味しいもの食べて、ゆっくりお風呂に入って、ぐっすり寝る! そしたら、次の朝は少しだけ体が軽くなると思います、きっと」
梨花の言葉に、彼はうつむき加減で頷いて、味噌汁を口に運んだのだ。
◇
そんな事があった事すら、梨花は今の今まで忘れていたけれど。
スーツ姿の綿貫は、にこにことした表情を崩さずに首を振った。
「助かったんです。本当に助けられた。梨花さんの言葉と、行動に」