第52話
いつも、あまり人気のない通りなのだ。
大通りから離れており、立地的に集客力が乏しいのだろう。
シャッターの降りた店も多くあり、さびれた印象が拭えない。
そんな通りからさらに細く薄暗い路地を入ったところに、その店はある。
年季の入った木造の建物は、店舗らしくない作りで、一見、ただの民家に見える。
中の見えないすりガラスの引き戸の横には、ブーっと鳴るタイプの懐かしい呼び鈴がついていた。
もとは白かったであろうプラスチックのボタンは、使い込まれた年月のぶん黄ばんでいて、マジックで使用禁止と書かれたテープが上から貼られていた。
かろうじて軒下にかかっているのれんが、店舗である事を主張する唯一のアイテムである。
藍染めののれんには、「一」の一文字が白抜きで。
当然のように軒先にメニューなど掲示しておらず、一見の客には入りづらいことこの上ない。
しかし長年この地で営業を続けているということは、固定客がそこそこついているのだろう。
梨花だって、そのうちの一人であるのだし。
「へー! ほんと、隠れ家みたいですね」
きょろきょろと店内を見回して、綿貫が言う。
店に近づくごとに不安そうな表情を濃くしていた彼だが、店内の客の入りをみて、少し安心したようだ。
平日のランチタイム。表に並ぶ客こそいないものの、いくつか並んだ4人がけのテーブルはほぼ満席。
梨花は席についた人々をさりげなく見回し、ちらりとその顔ぶれを見るけれど、見覚えのある人間はいなさそうだ。
そういえば、知り合いを連れてきたのは初めてだった。
「隠れ家っぽくて、良い感じでしょ? ここ、なんでも美味しいですよーー」
定食の種類も豊富だし、夜用の支度があれば、昼でも単品も注文できるのだ。
壁には所狭しと、料理名の書かれた木札がかかっていた。
メニューブックには載っていないのに、木札には名前のあるメニューなんかもあるので、見落とせない。
カキフライも美味しそうだし、回鍋肉も気になるな。
しかし今日の梨花はもう、何を頼むか決めていた。
会社を出る前から、決まっていたので。
綿貫のほうに、メニューを渡した。
……。
優柔不断、だろうか。
綿貫は考え込んだまま、黙ってしまった。
しばらくメニュー表のあちこちに目線を迷わせたあと、決めきれずという顔で梨花を見た。
「特におすすめってありますか?」
「おすすめはねぇ、アジフライ定食かな」
肉厚のアジフライ。
梨花のイチオシは醤油だけれど、お好みでソースでいただくのも良いし、お野菜たっぷりの自家製タルタルも、また美味しいのだ。
揚げたてをサクっとかじる幸せは、ぜひ味わってほしい。
「じゃ、それにしようかなーー。もう決まってます?」
「私もアジフライ定食。それとねぇ……」
◇
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
「おー、うまそう!」
やってきた定食に、綿貫が子供のように顔を綻ばせた。
揚げたてのアジフライのお供には、こんもりと盛られた千切りキャベツとレモン。
お味噌汁の具はわかめとお揚げ。
まわりをかためる小鉢には自家製のタルタルソースと、お新香。そして割り干し大根。
そしてーー。
「俺、深川飯って初めてです」
ふたりとも、ごはんは白米ではなく深川飯に変更していた。
ごはんの種類を選べるのも、このお店の良いところだ。
ぷりっとしたあさりが、米の間からのぞいている。
他の具はにんじん、油揚げ、細めのささがきごぼう。
ふわりと香る生姜が、また食欲をそそるのだ。
「美味しいですよー。ここのは炊き込みごはんタイプだけど、他のお店だと汁気のあるタイプもあるみたい。本場で食べたことはないんですけどね。一度食べてみたいですよね」
何気なく言った一言を、綿貫が拾う。
「行きましょうよ、今度!」
「え」
しまった。
そんなつもりではなかったので、驚きがそのまま口から漏れてしまった。
こういうところが梨花の、なんというかポンコツなところであると自覚している。
案の定、綿貫は「あっ」とした顔をして、付け足した。
「会社の人も、誘って」
なんだか気を使わせて申し訳ないなと思いながら、梨花は頷く。
「そうですね、また今度」
悪気はない。
悪気はないのだけれど、昔から円滑なコミュニケーションが得意ではない。
こんな時、沙月や梶田だったら、相手に嫌な思いをさせずに盛り上げられるのだろうな、と申し訳なく思う。
「えー、その感じ、実現しないやつじゃないですかー」
綿貫は綿貫で正直者である。
でもその反応は場を和ませるという意味ではアリなのかもしれない。
本人のキャラにもよるけど。
梨花には使えない技である。
「まぁ、仕事帰りにって距離ではないですけどー」
おどけたように言う綿貫のおかげで、その場が気まずくならずに済んだ。
「さっ、食べましょ食べましょ」
と、梨花は割り箸をとった。
脳内でのひとり反省会は後にしよう。
せっかくのアジフライが、冷めてしまってはいけない。
「あ、梨花さん、どうぞ」
綿貫が、テーブルの端にあった醤油差しを梨花によこした。
「ありがとう」
当たり前のように受け取ってから、少し遅れて違和感が脳に届いた。醤油をかけようとした手が止まる。
「どうして、醤油ってわかったの?」
梨花はテーブルの端に置いてけぼりの、ソースの容器を見つめて言った。
いたずらっぽく笑って、綿貫は言う。
「考えてみてください」
「えーー」
戸惑う梨花に、綿貫はさらにこう言った。
「思い出してくれたら、ご褒美をあげます」