第44話
「ここは……」
どこ? と聞こうとした梨花の肩近くに、彼は急に顔を近づけてきた。
状況がつかめず、固まる梨花。
彼はそのまま、すん、と鼻を鳴らし、すっと離れた。
「あんた、食いもんの匂いが染み付いてる。料理人か?」
なるほど、匂いを嗅がれていたのか。
にしても、匂いが染み付いてるって。
少し遅れて頬が赤くなるのを感じながら、なけなしの大人のプライドを支えになんでもない顔をとりつくろい、梨花は返事を返す。
「料理人ーーではないけど、料理は、好き」
「ふん?」
彼は梨花の頭からつま先まで、見定めるように視線を動かす。
なんなんだ。
そしてくるっと梨花に背を向けて、ぶつぶつとひとりで話し出した。
梨花のことは、ほったらかしだ。
「……どうせこのままはかえせないしーー」
漏れ聞こえるセリフが、なんだか物騒なのだけれど。
(失礼だけど、悪い子には見えないけどなぁ)
とりあえず、逃げる必要は感じないし、下手に逃げて迷ったらそれこそ命の危機が訪れそうな気がするし、彼の結論が出るまで大人しく待つとしよう。
しかし、すごい夜空だ。
まんまるのお月さまをみていたら、あたたかい蕎麦が食べたくなってきた。
あたたかいつゆに、ごま油で炒めた長葱と牛肉の薄切りをトッピング。
さらに刻み海苔と生卵の卵黄をおとして、そばに絡めながら食べるーー
梨花のふくらみかけた妄想は、彼の声にパチンとかきけされた。
「なぁ、あんた、ワタリだろ?」
「はぇ?」
「……」
よだれを垂らしていたわけではない。決して。
しかし彼の呆れたような沈黙に、梨花は思考を読まれたような気分になる。
「わ、わたりって?」
「複数の世界を渡る人間。あの階段が、どこかにつながっていると知っていたんだろう? なんなら、日常的に使っている」
「ああーーうん。私の住んでいるところに帰ろうとしていた。でも、君もそうとは思わなくて。普通に落ちちゃうんじゃないかと思って、止めようとした」
彼は少し高い位置にある、梨花の目を見上げた。
「どこのだ?」
「どこ……」
梨花が質問の意図を汲みかねて首を傾げると、彼は少しせっかちに言葉を続けた。
「お前の世界の、主人は誰だ」
と、言われましても。
主人? 主人ってーー
「ああ、大家さんのこと? えっと、このくらいの大きさで、黄色くてふわふわで」
梨花が身振り手振りをつけながら説明すると、彼は脱力したように肩を落とした。
「わかった。あいつか」
脱力というか、安心というか、そんなふうに、彼のまとう空気が一気に緩んだ。
ひらひらと手を振って、梨花に手招きをする。
「あとでちゃんと送ってやるから、手を貸せ、娘。俺についてこい」
「?」
大家さんの知り合いというのなら、人ではないのかもしれない。
それでも、見た目は年下(に見える)の子に、「娘」って呼ばれるのは不思議な感覚だわと思いながら、梨花は黙って頷いた。
◇
見渡す限りに森が続いているように見えたけれど、彼についていくとすぐに、賑やかな大通りに出た。
「わぁっ! おまつり?」
さっきまでの静寂が嘘のようだ。
にぎやかな話し声や笑い声が、波のように押し寄せてきた。
知らない場所なのに、懐かしい気がする。
それは幼い頃に見た夏祭りの光景と、少し似ていたからだろうか。
通りの左右には木造の屋台がずらりと並び、まんまるの提灯がふわふわと浮かぶ。
「ああ、俺たちの世界のな」
彼が、ぼそっと答える。
「あいつも、来ると思うぞ」
「あいつ? 大家さん?」
「ああ」
そうか、大家さんにも大家さんの付き合いがあるのだな。
と、梨花は納得する。
「出会えたらあいつと帰れば良いし、会えなければ俺が送っていく」
だから心配するなと、気を遣ってくれているのだろうか。
「ありがと」
「……」
相変わらず愛想はないけど、やっぱりいいやつだ。
「あ、待ってよ」
すたすたと先を歩く彼を、追いかける。
といっても、梨花の方が体格は良いのだ。すぐに追いついて横に並んだ。
「で、私は何をすれば良いの?」
ちら、と梨花を見たあと、彼は立ち止まり、小さな屋台を指差した。
「俺のーー出店。トラブルで開店できなくて、困ってる。手伝ってくれ」




