第43話
「ふ〜。お腹いっぱい」
梶田とは、電車に乗る駅で別れた。
ひとり電車を降り、最寄り駅から百階段までの道を歩きながら、梨花はなんだか朝より膨らんだ気がする、お腹をさする。
梨花の持って行ったお弁当も、3人で食べるには少し多かったなと反省する。
京都で買った素敵な食材たちを前に、つい、張り切ってしまったのだ。
梶田がたくさん食べてくれて、よかった。
さて、今日はまだ日が高い。
人通りのほとんどないこの道も、たまには通行人とすれ違う時もある。
うっかり人前で階段から飛び降りてしまったら、大事だ。きっと第三者から見た梨花の姿は、飛び降りたそのまま、忽然と消えてしまうのだから。
「あれ?」
階段のいちばん上に、小さな影が佇んでいた。
こちらに背を向けて立っている。
百階段を降りるでもなく。
立ったまま動かない。
(どうしたのかしら)
声をかけて、驚いて落ちられても困るし。
でもそこにずっと立たれていると、家に帰れないのだけれど。
(困ったな)
とりあえずの距離を保ったまま、梨花は相手の様子をしばし観察した。
両手は、パーカーのポケットに入れている。
右腕には、レジ袋をぶら下げたまま。
梨花よりも少し、背が低い。
小学生……高学年くらいだろうか。白いフードを被っている。
(あっーー)
デニムをはいた細い足に、軽く力が入ったように見えた。
その瞬間、咄嗟に梨花は動いていた。
走り寄って、腕を掴む。
覚えがある。あの感じ。
いつも、梨花がやっていること。
ーーこの子は、ここから飛び降りようとしている。
「危ないっ!」
力いっぱい白いパーカーの左腕をつかんだけれど、何せ、走り寄った勢いがついている。
梨花の体は、踏ん張りがきく体勢では、なかった。
ぎょっとして、梨花を振り返るーー少年、だろうか。
ずいぶんと、整った顔をしていた。
真ん中で分けられた、白い前髪が揺れる。肌も透けるように白い。
驚きに見開かれた目の、その瞳はつやつやと黒い。
顔立ちがあまりにも大人っぽくて、もしかしたら背が低いだけの青年なのかもしれないと、考えーーている場合ではないことに気づく。
「わ、わわわっ」
気づいたところで、もうどうにもできない。
ふたりとも、すでに半身は宙に浮いていた。
梨花はつかんだ腕を離すまいと力をいれる。
梨花がしっかりとつかんでいれば、もしかしたらあちらへ一緒に行けるかもと思ったのだ。
そうすれば、この少年だか青年だかーー仮に「彼」と呼ぶことにしようーーは、怪我もなく済むはずだ。
ちょっと、異世界には連れて行かれてしまうけれど。
ちょっと、いやかなり、驚くと思うけれど。
階段を転がり落ちて、大怪我をするよりはマシだと思うのだ、たぶん。きっと。
「誰、あんたーー、くそっ」
バランスを崩しながら、パーカー君は悪態をつく。
「余計な真似をーー」
悪態をつきながら、その反面、まるで梨花をかばうように、梨花の体を引き寄せた。
◇
体は、痛くない。
無事、転移できたようだ。
梨花は恐る恐る、目を開ける。
なんだか冷ややかな目をした「彼」が、隣に座って梨花を見下ろしていた。
彼の白さとフードの白さと、中性的な美貌。細められた目の冷たさも相まって、まるで雪女の親戚みたいだ。
雪女に会ったことはないけれど。
とりあえず、一緒に転移はできたのだ、よかった!
梨花はがばっと起き上がって、彼に向き合った。
「ーーあっ、君、大丈夫?! ここは、なんていうか、危ないとこじゃなくってーー、いや、どこ、ここ?」
異世界の、説明をしようとした。の、だが。
その語尾はすっとんきょうな叫びとなって、宙に溶けて行った。
梨花たちがいるのは、針葉樹の森の中にぽっかりと広がる、丸い空き地だった。
剥き出しの地面は茶色い土。
木々の向こうにはひたすらに木々しかなくて、森の深さは測れない。
しかも、夜だ。
肌寒さに身震いをして見上げた先の、ぽっかりとひらけた空には、見たこともないような満天の星が。
そして、同じく見たこともない大きな満月。
夜なのにぼんやりと明るいのは、月の光の恩恵か。
「わぁっーー」
梨花の目に入ってきたその景色は、見慣れたそれとはあまりに違うものでーー。
あんぐりと口を開けたまま夜空の光に見入っていると、パーカーの彼が、深く深いため息をひとつ落とした。
「よけいなもん、連れてきちまった」
よけいなもん。
梨花の、ことだろうか。
そうなのだろうな。
言い方が引っかかるけれど、梨花は知っている。
落ちる時、彼は、梨花を守るようなそぶりを見せた。
つまりあれだ、俗に言うーー
「ツンデレ?」
「何がだ」
違うかったらしい。ギロリと睨まれた。
若者言葉は難しいなと、遠い目をする梨花である。
しかし、良いこともわかった。
彼は「連れてきちまった」と言った。
つまり、ここは彼の「ホーム」なのだ。
その可能性に、なぜ思い至らなかったのだろう。
梨花と同じように、あの階段を入り口として使う「誰か」がいると言う事に。




