第4話
階段の上から、横長の緑色の屋根を眺める。
近所の小学生から谷底アパートと揶揄されるような立地にたつ、二階建てのボロアパート。
ついこの間まで、梨花が住んでいたアパートだ。
そのアパートに向かう百階段のてっぺんで、ごくりと生唾を飲む。
ここから、跳ぶのだ。
何度やっても、慣れない。
いや、実際、慣れてはきたのだろう。
思い切ってぴょんと跳ぶと、着地もうまく行くということがわかった。
向こうに着いたあと、着地に失敗して大の字で転がっていたのは最初だけだ。
でも、わかっていても、百階段の上から跳ぶという行為自体に、気持ちが慣れない。
先輩同居人たちの言によると、「入り口」は生活圏の中で少しずつ増えて行くらしい。
自宅へつながる道がいくつもできるなんて、夢のようじゃないか。
必ずしも、「落ちる」ことが必要でもないらしいし。
とある路地を曲がるとか、鳥居をくぐるとか、場所によって様々だとか。
早く第2の通路が開いてほしいなぁと願う梨花である。
それまでは、この百階段の上から跳ぶしかないのだ。
梨花の帰る場所は、異世界にあるのだから。
人通りの少ない場所ではあるのだけれど、念入りにきょろきょろとあたりを見回す。
(よし!)
両手に持った鞄とレジ袋をぎゅっと握る。
意を決して、梨花は跳ぶ。
だだっ広い空には、紫色の雲が浮かぶ。
少し先には、ログハウス風の小屋が一軒。
見渡す限りの草原に、建造物はその一軒だけだ。
扉には鍵が無い。
シェアハウスの住人以外には、会ったことがなかった。何年も住んでいる先輩たちに聞いても、そうらしい。
梨花が数年ぶりの「新しい人」、だったそうな。
なので、鍵がなくても、防犯的には問題は無いらしい。
ちなみに、それぞれの個室には一応、内鍵がある。
(着替え中とか、困るものね)
「ただいま、帰りましたぁ」
スーパーの袋を手に、敷居をまたぐ。
まだ夕食には早い時間だ。
他の同居人は帰っていないかもなと思ったけれど、奥の方から「おかえりなさい」と声がした。
「梨花ちゃん!」
「あ、五味さん。今日はお休みですか?」
玄関から続く廊下の先、居間の扉から顔を出したのは、若い青年だった。
黒髪ショートの前髪は長くて、大人しく言葉少なそうな雰囲気をまとっている。
そして、とっても背が高くてスタイルが良くて、服装もいつもオシャレなのだ。
今日は白シャツに黒デニムだった。
シンプルながら、シャツのボタンホールのステッチがブルーで、遊び心が彼らしく思えた。
「そうっす。あの、よかったらこれ」
そう言ってさしだされたのは、ひとつの紙袋。
何だろうかと、受け取って中をあらためる。
入っていたのは、綺麗に折り畳まれた、女性ものの洋服だった。
白いカットソーと、スカートだろうか。桜色の、ソフトツイードの生地が見えた。
「え?! あ、洋服担当って、こういうこと……?」
はじめてこのシェアハウスにたどり着いた日。
住人のひとり、ギャル系美人のキョーコから、説明をうけた事を思い出す。
ここの住人にはそれぞれ役割があって、それを認められると、部屋が与えられるのだと。
文字通り、部屋が与えられるのだ。この家から。
梨花は初めてここを訪れた日に、料理をふるまった。
料理担当と認められたことにより、梨花のぶんの部屋が出現したのだった。
そして、今に至るのだが。
「詳しい事、聞いてます?」
五味の問いに、梨花は首を横にふった。
「いえ、詳しくは。全然」
「おっけーです。俺が担当してるのは、洗濯と洋服の調達っす。好みもあるだろうし、もしよかったら、なんですけど。一応デザイナーのたまごなんで、勉強もかねて、俺がその人のイメージで作ってて」
「五味さんが作ってるんですか?!」
驚きすぎて、声が大きくなってしまった。
「え、すごい! 売り物にしか見えない! しかも」
手に持っていたレジ袋と鞄を、床に置く。
梨花は洋服を袋から出して、広げてみた。
カットソーはシンプルだけれど、首元に入ったタックのデザインがアクセントになっている。
ソフトツイードのスカートは膝丈で、裾に向けてふわりと広がるラインが美しい。
「こ、こんな素敵なお洋服、私に似合うでしょうか……!」
最近は服を買っても、仕事用のものやスーツばかり。
休日用の服といえば、数年前に買ったものを着たおしていた。
休日の用事といえば買い物や本屋巡りくらいのもので、問題はなかったのだけれど。
こんな春らしい服がワードローブに並ぶのは久しぶりで、なんだか嬉しくて、気恥ずかしい。
前髪の奥の優しげな目が、にこりと笑った。
「似合うと思って作ったんで。着てくれたら嬉しいっす」
「あ、ありがとう……ございます!」
嬉しい。洋服も、その言葉も。
「あ、お金」
こんな素敵な手仕事に、対価を払わないなんて、あって良いはずがない。
「いくらですか?」
そうですね、と、五味は顎に手を当てて言う。
「前の料理担当の人の時は、布の材料費分だけを、もらってて。毎月渡す分の食費から、引かせてもらってました。同じで、いいです?」
「もちろんです! ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございます。好みじゃなかったら、遠慮なく言ってくださいね。押し売りみたいで、申し訳ないんで」
「はい! 素敵すぎて、びっくりしちゃっただけで。とっても、気に入りました」
「喜んでもらえて、嬉しいっす」
照れたように笑ったあと、五味は大きな体をかがめて、梨花の置いたレジ袋を拾いあげた。
「これ、運びますよ。ってか、重。何すか? これ」
袋を覗きこんで、首を傾げる五味。
「あ、ありがとうございます。道明寺粉とか、いろいろ」
「どうみょうじこ」
初めて聞いたという顔の五味に、説明する。
「桜餅の、材料なんです。実は、個人的な事なのですが、いろんな桜餅を試作する事になりまして。お嫌いじゃなかったら、試食していただけますか?」
五味のコクコクと頷く姿が、大型犬のようで可愛いなと、梨花は思った。
「嬉しい。和菓子、大好きっす」
「いいんですか?! でも、ご迷惑じゃ」
そう言って、喜びながらも梨花のことを気づかってくれた。昼休みの梶田の顔を、思い出す。
「全然! お料理は、私の気分転換でもあるので!」
ガッツポーズをする梨花に、安心したように笑った、梶田。
「じゃあ、お願いします。ありがとうございます」
喜んでもらえるって、いいな。梨花は思う。
(もう、ひとり暮らしには戻れないかも)
ひとりで食べるご飯よりも、誰かの美味しそうな顔があるほうが嬉しいし、楽しいことを思い出してしまった。
(梶田さんのおばあさまにも、美味しい顔をしてもらえたら良いのだけれど)