第38話
「お待たせしました。こちらのお席にどうぞーー」
白髪まじりの女性に案内され、席につく。
ラミネートされたメニューにサッと目を通すけれど、やはりここは初志貫徹で行こうではないか。
「ご注文はお決まりですか?」
お盆を持って戻ってきた女性から、おしぼりを受け取りながら、梨花が注文する。
「ネギトロ丼、お願いします」
「ふたつで」
と、梶田。
「かしこまりましたーー。こちら熱いので、お気をつけくださいね」
そう言って、女性は白磁の急須を置いて去っていった。
梨花はテーブルの端に積まれた湯呑みを手に取って、お茶を淹れる。
「ありがとうございます」
湯呑みを受け取って、梶田はお茶をひとくちすすり、ほうっと息をついた。
「思い出」
と、梶田が言う。
「満喫、できました?」
「はい! ありがとうございます」
「こちらこそ。連れに選んでくれて、ありがとう」
にっこりと笑う梶田。
そういうことをサラッと言っちゃうあたり、天然の人たらしだよなぁと梨花は思う。
「出張のオマケにこんな楽しいイベントがあったら、毎月行きたいです」
それもまた真面目な顔で言うのだから、始末が悪い。
(本気にしちゃだめ、社交辞令)
気持ちを自覚したからといって、舞い上がらないように。
呪文のように心の中でつぶやきながら、世間話に花を咲かせていたら、さっそく梨花たちのもとにやってきた。
お待ちかねの、輝くあの子。
「お待たせしましたーー!」
と、やってきた店員さんは、肉付きの良い、ポニーテールの女性だった。
どん、と、重量感のある丼が目の前に置かれる。
「ネギトロ丼です。よかったら、取り皿お使いくださいね。お米を掘ろうとすると、刺身が雪崩れを起こしちゃうので!」
そう言って、桜模様の取り皿をよこしてくれる。
「汁物もすぐにお持ちしますね」
言葉通り、すぐに赤だしと、山盛りのガリを持ってきてくれた。
「ごゆっくりどぉぞー!」
「おおー! すごいな」
言いながら、スマホをネギトロ丼に向けた梶田。
「普段、あんまり食べ物の写真って撮らないんだけど。これは残しておきたい」
と、照れたように笑う。
「梨花さん、せっかくだから入ってくださいよ」
「えっ」
急に言われて、スマホを向けられて、梨花は慌てて笑顔をつくる。
しまった、普通のピースをしてしまった。
もうちょっと何かあったのではと思うけど、自分の引き出しには気の利いたポーズなどもともと入ってはいないなと、梨花はすぐに諦めた。
梶田はにこにことスマホを置いて言った。
「よし、待ち受けにします」
「やめてください」
そんなボケとツッコミも経て、いよいよ実食の時。
「なるほど、これはたしかにお刺身がこぼれちゃうな」
「取り皿必須ですね」
まずは、刺身を半分ほど皿に避ける。
刺身の隙間からネギトロが姿を現したら、サッと醤油を回しかける。
添えられたワサビを少し箸でとって、ネギトロにちょんと付ける。
サクッと深めに箸を入れ、ご飯とネギトロを一緒にお口へ。
「ん〜〜!」
美味しい。
酢がたちすぎていない、さっぱりとした酢飯に、口の中でとろけるネギトロ。そして香りの良いワサビ。
醤油に隠れた出汁の風味が、後味に華を添える。
「やばっ」
美味しさのあまり、梶田の語彙が衰退している。
まぁ、梨花も一緒だけれど。
「美味しいしか出てこないです」
よし、二口目は、刺身だ。
まずは、イカ。
「うん、美味しい」
パキッとした歯応えと、ほのかな甘み。
添えられた大葉の風味がまた爽やかで。
「うわ、カンパチうまっ」
梶田はカンパチにいったようだ。
鮮やかな血合の色で、新鮮さがよくわかる。
「ほんと、新鮮さが凄いですよね」
「や〜。幸せ〜。だめだこれ、月曜から仕事戻れるかな〜」
梶田が幸福に溶けそうな顔をしている。
梨花はふふっと笑って、激励の言葉を。
「お弁当はりきるんで、頑張りましょう」
「わ〜。頑張れる〜」
言葉とは裏腹に、梶田の表情は溶けたままだった。
「しっかりしてくださいよー!」
言いながら、思わず笑ってしまう。
(もー、梶田さん、仕事中の顔と、全然違うじゃないですか)
まったく楽しすぎて、口角が上がりっぱなしの口元から、思考がそのままこぼれてしまった。
「好きだなぁ」
「えっ?」
問い返す梶田の顔を見て、梨花が己の失態を悟るまで、0.2秒。
「あ、この中トロ! いままで食べた中でいちばん好きだな〜!」
間髪入れずに捻り出した、苦し紛れのセリフ。
ああ、顔が熱い。
梶田はおかしく思っていないだろうか。
確認したいけれど、とてもじゃないけど彼の顔など、いまは見れない。




