第37話
「……かさん、梨花さん!」
瞬きをすると、太陽の光が眩しく飛び込んできた。
霧はもう、ない。
梨花の足は間違いなく、砂利の上に立っていた。
「ひゃいっ」
ああ、また変な声が出てしまった。
かぁっ、と、頬が熱を持ち血が集まるのがわかる。
「大丈夫、です?」
心配そうな梶田の顔。
「あっ、ごめんなさい、ぼーっとしちゃってーー」
さりげなく目だけであたりを見回すけれど、元通りの風景だ。
道を行く観光客の姿も、変わったところはない。みな、思い思いの旅を楽しんでいる。
安心したように梶田は笑う。
「ぜんぜーん。ゆっくり思い出にひたってね。おばあちゃんに会いに来たんだから」
「あっ」
おばあちゃん、ごめん。一瞬だけど忘れていた。
梶田さんの事で、頭が占められて。
もう、まつさんがあんな事を言うからだ。と、思わず思ってしまう。
ポコン
「いたっ」
何やら軽く小さく固いものが頭に落ちてきた。
そして、
ーーニンゲン同士は、ちゃんと伝えないと伝わらないわよっ! まつに言ったみたいに大きな声で、ね。
姿は見えず、しかし記憶の中の美女の声でそう叱責された。
まるで、心の中を読まれたみたいに。
そんな事を言っても、梨花だってあの瞬間に自覚したのだ。
梶田の隣のポジションを、譲りたくないという気持ちを。
「松ぼっくり」
痛みの犯人を、梶田が拾いあげる。
「落ちる瞬間、初めて見ました」
屈託のない笑顔が、いまの梨花には目の毒だ。
(落ちる、瞬間。落ちる。何にーー?)
だめだ、すべてがこの気持ちにつながってしまう。
梶田はそんなつもりは微塵もないのに。
「か、梶田さん」
つい、話を逸らせてしまう。
「あ、そう、観光船! 楽しみだなって、思って」
ちょうど白い姿を見せた船を指差して、梨花は言う。
海の方に顔を向けていたかった。
鏡を見なくてもわかる。いま、梨花の顔はとても赤い。
(おばあちゃんの思い出と一緒に、ゆっくりと巡りたいのに。私ったら)
ーー大丈夫よ。死んだ人間のことばかり考えるよりも、今を夢中に生きてほしいと思うでしょうよ、シホなら。
今度は、さくらの声で聞こえた。
(……うん)
そうだろうと、梨花も思う。
梨花の知る祖母は、そういう人だ。
だからこそ、梨花は見せたかったのかもしれない。
私は元気だよって。一緒にご飯を食べてくれる人たちもいるよって。
安心してねって。
だからこそ、おばあちゃんーーシホを知る人(人ではないけど)と、こうして、ひとときでもつながれたことが、とても嬉しかった。
……………………
………………
観光船から見る海と松の姿は、また違った美しさがあった。
つぼみだった山の桜も、なんだかきらきらと輝いていて、梨花たちを見守ってくれているように感じる。
(また来るね)
心の中でつぶやいて、梨花はそっと手を振った。
◇
海沿いの道を車でしばらく走ると、広い駐車場の中にぽつんと建つ平屋の店が見えた。
「あ、あそこです」
「え、すごい。看板も何もないのに並んでるね」
駐車場も半分以上埋まっている。
車を止め、入り口へと歩く。
フードコートのような簡素な机と椅子が並ぶ店内は、片付け待ちの空きテーブルがいくつか見えた。
待ちは6組だけれど、そんなには待たなそうだ。
ウェイティングシートに名前を書いて、列の最後に並んだ。
「ここも、おばあちゃんと来た?」
「はい。おばあちゃんは、ネギトロ丼が好きで。と言っても、他のお刺身もたくさん乗ってて。ご飯、ネギトロ、その上に中トロやサーモンやかんぱちやイカがもりもりって感じの」
「うわー、絶対うまいやつ」
「ですです」
梨花は、じいっと店を見つめた。
昔と同じ店構えのはずなのに、古ぼけたガラス戸がずいぶんと小さく見えた。
より変わったのは自分のほうか。
「私はまだ大人の一人前は多すぎて食べられなかったから、細巻きと茶碗蒸しを頼んで、おばあちゃんのお刺身を分けてもらって」
忘れていた光景が、昨日のことのような鮮明さをもって、記憶の底から浮かびあがる。
ちょうど窓際に座っている、3世代の家族連れ。
その中の祖母らしき女性と幼い女の子の笑い合う姿に、梨花は記憶を重ねて目を細めた。
たしかにここで、おばあちゃんと笑い合った。
おばあちゃんがいなくなっても、幼かった梨花が大人になっても、その記憶はちゃんと、梨花の一部として残っている。
「今日はどうする?」
そう言う梶田の記憶にも、今日の梨花が残っていくのだろうか。
梨花がそんな事を考えているなんて、彼は思ってもいないだろう。
にやりと笑って、梨花は言う。
「ネギトロ丼、行っちゃいます」
「おっ、行っちゃいますか」
にやりと笑い返してくれる梶田。
きっと、梨花の中には残り続ける。
たとえ彼が、いつかこの日を忘れてしまったとしても。




