第2話
うっかり、引き受けてしまったけれど。
あまり仲良くもない人気者の異性に声をかけて、あまつさえ悩み相談に乗るなどと。
冷静に考えると、あと人生3周くらいはしないと、ハードルが高すぎると思うのだが。
「これは仕事、これは仕事……」
仕事相手から潜在的な要望を引き出すための、プレゼンだと思え。
「梶田くん、昼休みはいつも屋上にいるから」
そう、沙月さんは言っていたけれど。
いなかったら、また今度よね。
自分に言い訳をしながら、屋上へと続く、仄暗い階段をのぼる。
自分の靴音だけが空間に響く。
ひやりとした空気に、少し身震いをした。
(屋上なんて、滅多に来ないからなぁ)
夏祭りの日に、皆で花火を見上げて以来か。
すぐに帰っても道が混むからと、花火が終わったらまた皆残業に戻ったのだよなと、思い出す。
さて、現実逃避はそのくらいにして。
簡素な銀色のノブに手を伸ばし、ひねる。
音を立てないよう、ドアをゆっくりと押す。
ここ最近でいちばん重たい扉だなと、ひとり思う。
ーーうん。いた。
(いちゃったか〜)
ひとり、ベンチに座ってスマホをいじりながら缶コーヒーを飲んでいらっしゃる。
缶に添えられた指が長くて、綺麗ですね〜。
チャコールグレーのスーツが似合いすぎて、組んだ足が長すぎて、まるでカタログモデルのようだ。
黒髪だけれど少し茶色がかった色は生まれつきのものだろう。
顔が小さい。というか、顔が良い。なんとかいうアイドルに似ていると、同期が言っていたのを思い出す。
なんというか、眩しい。
ここまで造作に隔たりがあると、同じ種族とは思えない。嫉妬の気持ちすら湧かないから、不思議だ。
たしかに少し浮かない表情をしていて、それがなんだかドラマのワンシーンのように思えてくる。
そろそろBGMが流れて来そうだ。
通常、このタイミングで登場するのは麗しいヒロインであって、決して冴えない同僚ではないのである。
ああ、気が重い。
一度閉めたドアのノブを握ったまま、深呼吸する。
約束は約束だ。腹を括ろう。
梶田の前まで歩いて行くと、こちらに気がついたようだ。
見上げてくる梶田の目を見れなくて、耳のあたりを見ながら言った。
他人に対して耳の形が整っているなどと思ったのは、生まれて初めてだった。
「梶田さん」
「あ、はい」
「企画部の嘉洋です」
「あ、知ってます」
「今日は良いお天気ですね」
「ですね」
我ながら、下手くそがすぎる。
だって、たしかに通常時より元気がないのか、光成分が少ない気もするけれど、屈託のない笑顔がやっぱり眩しいのだもの。
ええい、なるようにしかならん。
「私も、ここでお昼を食べても良いでしょうか」
「あ、ここどうぞ。荷物、どけますね」
突然声をかけてきた怪しい同僚に引くこともなく、さりげなくベンチの上のリュックを退けて、座るスペースを作ってくれた。
さすが悩んでいても、コミュ強である。
謎の感心をしてしまう。
梶田ファンクラブのおばさまたちに見つからない事を祈りながら、梶田の隣に腰を下ろす。
見つかったら、明日からの社内生活に支障をきたすかもしれないのだ。くわばらくわばら。
早急にミッションを終えよう。
「お弁当ですか?」
弁当箱をランチバッグから出すと、梶田が興味ありげに問うてきた。
「はい。ほとんどあまりものですけど」
「いいなぁ。僕、朝弱くて、コンビニで買うのが精一杯です」
そう言って、サンドイッチをレジ袋から出す梶田。
3秒悩んだ後、手に持った弁当箱を差し出してみる。
異文化交流にはまず食だ。
「……食べます?」
「いいんですか?!」
想像の5割り増しで食いついてきた。
「お口に合うかは、わかりませんが」
「じゃあ、はんぶんこで交換しましょう。サンドイッチもどうぞ!」
はんぶんこて。可愛いな。
おばさまに人気があるのもよくわかる。
なんというか、母性本能をくすぐるというやつか。
梨花に母性があるのかどうかはよくわからないけれど。
「ありがとうございます」
「たまごとハム、どっちにします?」
「じゃあ、たまごで……」
梶田は人をよく見て、それに合わせてくれているのだろうと思う。
心地よいテンポで話してくれるし、食べている間の時折の沈黙も、苦ではなかった。
思いがけず楽しい時間を過ごせて、梨花はすっかり和みモードになっていた。
うん。たまにはサンドイッチも新鮮だったな。
ずっとおにぎり派だったけれど、今度作ってみても良いかもしれない。
食パンも良いし、ロールパンサンドも美味しそう。
時間が無い時は好きな具材だけ持って行って、通勤途中にベーカリーで買った柔らか目のフランスパンにはさんで……。
水筒のお茶を飲みながら、ほっこり妄想していた梨花は、唐突に当初のミッションを思い出す。
「悩み……」
って。あります?
そう聞こうとした台詞を、飲み込む。
「はい?」
聞こえなかったのか、意味をはかりかねているのか、問いかえす梶田。
今日初めてまともに話した人間から、いきなり悩みがないかと聞かれてみろ。梨花なら宗教かマルチ商法の勧誘だと疑う。
ここは、そうだな……。
「悩みがある時って、どうやって発散してますか?」
少しぼやかしてみた。これでも精一杯だった。
「そうだなぁ、いったんその原因から離れて体を動かしてみるとか、美味しいものを食べるとか」
梶田は律儀に答えてくれる。
その表情が、ふと暗くなった。
「あ、でも今、その美味しいもので悩んでるんですよねぇ」
奇跡がおこった。
梶田の方から、食いついてくれるとは。
釣り針に餌をつけようと奮闘していたら、魚が堤防に打ち上がってきたような気分に、梨花はなった。