第1話
総務部の真っ白な扉の前で、動物園の熊のようにうろうろすること早5分。
この度の事情を、どう説明するべきか。
正直に言うならば。
「谷底アパートに降りる百階段のてっぺんから転がり落ちたら、そこは紫色の雲が浮かぶ世界で、歩き回って見つけた一軒家にお世話になる事になったので、谷底アパートは引き払います」
なのだけれど。
異世界に引っ越すので住所はわかりませんなんて、残業のしすぎで頭がおかしくなったと思われてしまう。
友人のところに居候するので、いままでの住所が使えない。
とりあえず書類上は実家の住所にしておいてくれ。
やっぱり、シンプルにこれでいこう。
脳内でのシミュレーションを終え、いざ出陣と意気込んだ時だった。
「何かご用かしら?」
背後からの声に飛び上がりそうになる。
「あ! 沙月さん! お疲れ様です」
振り返った先には、年齢不詳の美人。
ゆるく巻いた茶色い髪はハーフアップで、派手さは無いがセンスの良いスーツに身を包む。
総務部の駿河沙月だった。
2年前まで企画部に在籍していた先輩だ。
「あら、梨花ちゃん。お疲れ様」
「あ、あの、じつはですね、友人のところに居候することになりまして、書類上の住所を実家に変更したいって言うか」
「はっはーん」
何だかにやりとして頷いている。わかってもらえたのだろうか。
「わかったわ。住所は言えないけれど、新しい生活をスタートしたいと」
「? まぁ、そうです。はい」
「まかせて! 誰にも言わないから。うふ。若いって良いわね」
「あ、ありがとう……ございます??」
なんだか、勘違いがありそうだけれど。
「社内恋愛は別れた時に気まずいものね。同棲しても寿まで隠しておきたい気持ちはわかるわ。私も20年前は……」
「社内恋愛?!」
思わず悲鳴をあげてしまった。
一体、誰と?!
毎日言葉を交わす異性といったら、後輩の田ノ口君と課長くらいなのだけれど。
「え、違うの? 同棲するけど住所でバレたくないんじゃないの?」
とんだ勘違いじゃないか!
「違います!」
「なぁんだ」
「沙月さん。急につまんなくなったと、顔に書いてあります」
「あら、ごめんなさいね。でもそれもそうねぇ。うちの会社の独身のモテそうな若い子っていったら、梶田くんくらいだものねぇ」
沙月さんが、まわりを見渡し、悪寒をこらえるように両腕をさすった。
「梶田くんと同棲なんて噂が流れたら、おばさま達のサツ……視線が怖いわねぇ」
(いま、殺意っていいかけましたよね?)
頭痛がし始めた気がして、こめかみを押さえる梨花。
だいたい。
「梶田さんとなんて、釣り合う訳が無いじゃないですか」
そうなのだ。
ここに、梶田さんの二つ名を思い出せるだけ並べてみる。
営業の星。おばさまたちのアイドル。コミュ力の権化。陽キャの代表。イケメン。中身までイケメン。
うん、天地がひっくり返っても、無いな。
「梶田くん、最近ちょっと消極的っていうか、表情が暗いのよぉ。だからさぁ」
ちらりとまわりを見渡し、梨花の肩に手を回す。
「お願い! 住所の事はうまくやっておいてあげるからさ、それとなぁく、梶田くんの悩みを聞いてあげてよ!」
「私につとまるとは」
むしろ先輩たちのほうが、トーク力に優れているのではないか。
「年齢が近い方が、話しやすい事もあると思うのよー。梨花ちゃん、聞き上手だし」
「それは口下手なだけで」
せめて気持ちよく話してもらおうと、相槌には余念がないだけだ。
「そぉんなことないわよぉ! 我が社のアイドルが元気ないと、会社だってつまらないでしょ?」
「知りませんけど」
「もちつもたれつよぉ」
暗に住所のことを言ってらっしゃる。
「くっ……わかりました」
こっちだって後ろ暗いのだ。ここらで交渉成立させてしまおう。
「会社は仕事をするところですけどね」の一言は、噛み砕いて飲み込んだ。