86.朝の馬場にて
休日の早朝、イアンは馬場に足を運んだ。
まだ薄暗い時間であり、さすがに馬を走らせる者はいない。
厩舎に向かったところ、馬の動く音以外に物音が聞こえてきた。
そっと中を覗き込むと、誰かが馬に手を伸ばしていた。
馬泥棒かと思ったが、馬も暴れる様子はなく、それを受け入れていた。
よく目を凝らしてみれば、その人影はクレアだった。
「あれ?イアン君、どうしたの?」
クレアはイアンがいることに気付き、傍に駆け寄ってくる。
「どうしたのって、クレアこそ、こんな朝早くに何してるんだ?」
「この子たちのお世話だよ。いつもはもう少し遅い時間なんだけど、今日は早めに来たんだ」
「練習でも毎日乗っているのに、世話までしているのか?」
「ずっと接している内に愛着が湧いちゃって、つい…」
クレアはもじもじと指を回す。
「確か、馬の世話は持ち回りだっただろ?まさかとは思うが、クレア一人で全部やってるとは言わないよな?」
「えっと、それは、その…」
クレアはあからさまに目を逸らして、誤魔化そうとしていた。
その姿はまるで親に叱られる子どものようだ。
嫌な仕事を押し付けられるという話はよくあるが、クレアの場合、自分から率先して行っているのだろう。
クレアの馬好きは知っていたが、これ程までとは思わず、イアンは小さくため息をつく。
「…無理はしてないか?」
「うん、大丈夫だよ。私が好きでやってることだから」
「それならいいが…」
クレアが納得しているならと、イアンはそれ以上何も言わなかった。
「と、ところで、イアン君は乗馬に来たんだよね?」
「ああ。たまには乗っておかないと、感覚を忘れるからな」
「じゃあ、今日もノルンに乗っていく?連れて来ようか?」
「いや、それは後でいい。今はクレアの手伝いをさせてくれ」
「いいの?」
「ああ、もちろんだ」
「じゃあ、お願いするね。まずは…」
それから、イアンはクレアと一緒に厩舎の掃除や餌の補充などを行う。
イアンも馬術部に所属していた時には経験したが、馬の世話というものは重労働だ。
それを一人で行うというのだから、クレアへの負担は相当なものだろう。
イアンは時間があるときにはなるべく手伝いに来ようと胸の内で決めた。
小一時間ほどで大方の作業を終わらせ、ブラシ掛けに移る。
クレアに勧められ、イアンはノルンを担当することになった。
ノルンは栗毛の大柄な馬で、イアンが馬術部にいた頃から乗っている。
慣れない手つきでブラシを掛けていると、ノルンは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
やはりクレアに比べれば、下手だと分かるらしい。
イアンがノルン一頭に苦労している間に、クレアはノルン以外のすべての馬のブラシ掛けを終わらせていた。
「ノルンの様子はどう?」
「俺の手際が悪いから苛ついているな。ただ、大人しくしてくれているよ」
「そっか。ノルンは偉いね」
クレアに首筋を撫でられ、ノルンは気分良さげに声を漏らした。
「そうだ。ノルンの蹄鉄なんだが、少し緩んでいるようなんだが…」
「あ、本当だ。ちょっと道具を持ってくるね」
クレアは小走りで道具を取ってくると、ノルンの蹄鉄を調整し始める。
「蹄鉄の調整までできるんだな」
「最近覚えたんだよ。将来、ローウェル領でも馬の牧場を造りたいと思ってて、この前は出産にも立ち会ったんだ」
「へえ、そんなこともやってるのか。クレアは努力家だな」
「ありがとう。でも、イアン君ほどじゃないよ」
「そうか?」
「うん、イアン君の方がずっと頑張ってると思う…これでよし」
クレアはしゃべりながらも、手際よく蹄鉄を付け直した。
イアンもようやくブラシ掛けを済ませると、ノルンはやれやれと言わんばかりに鼻を鳴らす。
「やることは全部終わったし、走りに行く?手綱と鞍を用意するね」
「ああ、頼む」
イアンたちはノルンともう一頭の馬に装備を付けると、馬場に繰り出した。
まずはゆっくりと歩かせてみて、自身の感覚とノルンの調子を確認する。
ノルンの調子が良さげだったので、すぐに駆け足に変えた。
しばらく走れば、イアンも鈍った感覚が戻ってくる。
すると、力を持て余しているのか、まだいけるぞとノルンの方から催促してきた。
「…全力で走っていいが、俺を振り落とすなよ」
イアンの言葉にノルンが一鳴きすると、唐突に速度を上げた。
ノルンは力強く土を蹴り、風を切って駆ける。
すぐに最高速度に達し、振動と空気抵抗で姿勢を維持するのが辛くなってくる。
しかし、今の速さで振り落とされては怪我どころでは済まないので、イアンは手綱を持つ手に力を込める。
馬場を数周した後、満足したのかノルンは足を止めた。
そこに白毛の馬に乗ったクレアが近寄ってくる。
「お疲れ様。やっぱりノルンはイアンと走るのが一番楽しいみたいだね」
「そうなのか?嫌がらせのようにしか思えないぞ?」
「そんなことないよ。だって、他の人だとノルンが全速力で走ることはないんだから」
それに同意するようにノルンは鼻を鳴らした。
何だかんだ言って、イアンはノルンに気に入られているのかもしれない。
しばらくクレアと並走した後、ノルンたちを厩舎に戻した。
「久々に乗馬したら、少し疲れたな」
「まあ、あれだけ走れば疲れるよね」
「クレアの乗っていた白毛の馬はほとんど走らなかったな」
「スピルナはマイペースな子だからね。でも、とっても器用なんだよ。だから、障害の練習はいつもスピルナとやっているんだ」
「そういえば、そろそろ馬術大会の学内選抜の時期じゃないか?」
「…えっと、実は今日が選抜の日なんだ。だから、準備するつもりで早めに来たんだよ」
「それは何というか…邪魔して悪かったな」
「ううん。むしろイアン君が来てくれてよかった。ちょっと緊張してたから、おかげで肩の力が抜けたよ」
クレアは柔らかな笑みを浮かべた。
「あの、一つお願いしていいかな?」
「ああ、いいぞ。何だ?」
クレアは僅かに顔を赤らめ、おもむろに口を開く。
「手を…握ってもいいかな?」
「別に構わないが、どうしてだ?」
「それは、ほら力をもらうというか、何というか…」
イアンの質問に、クレアはしどろもどろな説明をする。
その様子を不思議に思ったが、イアンはクレアの手を取った。
「これでいいか?」
「…うん」
クレアはイアンの手を握った。
一分ほど経った後、クレアは手を放した。
「ありがとう、イアン君。私、頑張るね!」
拳をグッと握ったクレアの表情はやる気に溢れていた。
その数日後、クレアが学園代表に選ばれたという知らせをイアンは耳にするのだった。




