61.享楽
静寂に包まれた倉庫の中、イアンは倒れ伏していた。
⸻マッタク情ケナイ。コノ程度デ倒レルトハ…
その声は失望したように呟く。
⸻何ヲシテイル?早ク起キロ
その声が呼びかけるが、イアンが反応することはない。
⸻…完全ニ落チタカ。サテ、ドウスル?
その声はしばらく考え込む。
そして、あることを思い付いた。
⸻折角ノ機会ダ。コノ身体ノ仕上ガリヲ確カメルトシヨウ
すると、指先がピクリと動き、ゆっくりとイアンの身体は起き上がった。
そして、手を握ったり開いたりして身体の感触を確かめる。
「流石ニ全盛期ニハ及バナイナ。ダガ、ハンデトシテハ丁度イイダロウ。久々ニ楽シメルトイイガ」
頬を緩ませ、イアンの手が倉庫の扉を開いた。
「ジョナス、次の相手はどうする?」
「ん?ああ…」
リックの問いかけに、前を歩くジョナスは空返事をした。
喧嘩が期待外れの結果に終わった場合、ジョナスは毎度このように心ここにあらずといった調子になる。
この分だとしばらくはまともに会話できないと、リックはため息をついた。
ジョナスは喧嘩において無類の強さを誇る。
どんな実力者でも多少は善戦するが、ジョナスに勝つことはできない。
最上位の実力を持つ者の一人であるイアンでさえ、結局はジョナスに敵わなかったのだ。
次の相手を尋ねたものの、今日の喧嘩で対戦相手の候補をほぼ消化してしまった。
同学年でまだ残っている実力者といえばセシリア・ベレスフォードだが、ジョナスは女を相手にする気はなく、リックも公爵家には目をつけられたくないので候補からは外れている。
また、唯一ジョナスと引き分けたダリル・ウォーレンも、喧嘩は二度としないと公言していた。
喧嘩相手の選定にリックが頭を悩ませていると、唐突にジョナスが足を止めた。
「ジョナス?」
「やべ、震えが止まんねえ」
ジョナスの表情は笑っていたが、その手は細かく震えていた。
そんなジョナスを初めて見たのでリックは目を丸くする。
すると、ジョナスは倉庫に向かって引き返し始めた。
「おい、本当にどうしたんだ?」
「分からねえのか?この先にいるんだよ、とびきりやべえ奴が」
言葉とは裏腹に、ジョナスの目は期待に満ちている。
そんなジョナスに取り巻きたちは慌てて道を空けた。
取り巻きたちの間を抜けると、そこにはイアンが佇んでいた。
その姿を見たリックは目を疑う。
「馬鹿な。あれだけのジョナスの攻撃を受けて、なぜ立ち上がれる?」
「んなこと、知るか。分かんのは、さっきまでの奴とは違うってことだけだ」
ジョナスは舌なめずりをする。
一方、リックは先程から冷や汗が止まらなかった。
(何だ、この殺気は?こんな肌を刺すような殺気は感じたことがないぞ…)
すると、イアンの指がジョナスを指した。
「オ前ダナ?俺ノ身体ヲ倒シタノハ」
「ああ、そうだよ!」
ジョナスはイアンとの距離を躊躇なく詰める。
そして、全力の拳を放ち、鈍い音が響いた。
「おいおい、まじか」
冷や汗がジョナスの頬を伝う。
その拳はイアンの片手で受け止められていた。
「ガキニシテハヤルヨウダナ。ダガ、拳ノ使イ方トハコウスルモノダ」
次の瞬間、ジョナスの腹にイアンの拳が深く沈む。
「ぐはっ…!」
その一撃の重さにジョナスは膝を着きそうになる。
だが、イアンの手が胸倉を掴み、無理矢理ジョナスを立たせた。
「コノ程度デ倒レテクレルナヨ。コレカラガ本番ダゾ?」
そこからは一方的な展開だった。
イアンの拳が反撃の隙も与えず、ひたすらジョナスに降りかかる。
止まない攻撃に、ジョナスは初めて恐怖というものを理解した。
もはや恥も外聞も捨てて、なりふり構わず全力で逃げようとするがそれは叶うことはない。
その残虐な光景をリックは青ざめた表情で見ていた。
イアンの手が止まった時には、ジョナスはボロ雑巾のようになり、辛うじて息をする状態だった。
「ナンダ、ツマラン。殺ス価値モナイ」
イアンの手はジョナスを乱暴に投げ捨てた。
「サテ、オ前タチハドウカナ?」
リックと取り巻きたちに冷徹な目が向けられる。
「…う、うわぁ!」
一人の逃亡をきっかけに、雪崩のように次々と逃げ出し始める。
ジョナスという支柱を失った集団はあっという間に瓦解するかと思われた。
「狼狽えるな!」
リックの一声が皆の足を止めた。
「ここで逃げればジョナスはどう思う!?相手はたった一人だ!全員でかかれば何とかなる!突撃!」
リックが先陣を切って走り出す。
「馬鹿ナ奴ラダ。今カラ始マルノハ只ノ蹂躙デシカナイトイウノニ」
そう呟くイアンの目には哀れみが浮かんでいた。
そこには夜の静けさが戻っていた。
だが、イアンの足元には取り巻きたちが倒れており、呻き声が聞こえてくる。
「まさか…触れることすらできないなんて…」
リックは首を掴まれ、宙吊りにされていた。
額からは血を流し、顔には痣がいくつもある。
一方、イアンの身体はまったくの無傷だった。
「虫ケラ程度ガ私ノ相手ニナルトデモ思ッタカ?身ノ程ヲ弁エロ」
「ぐっ…!」
「何をしておる!?」
リックの首が絞められる直前、怒声が響いた。
声の主はトマスで、しっかりとした足取りで歩いてくる。
イアンの手はリックを放し、解放されたリックは大きく咳込んだ。
「騒がしいと思って来てみれば…お主がやったのか?」
「ソウダ。私ガ手ヲ下シタ。アア、殺シテハイナイゾ?」
「…お主、誰じゃ?」
「見テノ通リ、イアンダガ?」
「嘘をつけ。人格がまるで違うぞい」
「魂ハ同ジナンダガナ…マアイイ。貴様ハ消シテオクカ」
突如イアンの蹴りがトマスを襲った。
だが、トマスはそれをあっさりいなすと、流れるような所作でイアンの身体を地面に組み伏せる。
「師であるわしに勝てると思うたか?」
「コノ身体デハマダ無理ガアルカ。仕方ガナイ。今日ノトコロハ去ルトシヨウ…」
声が消えると同時に、イアンの目に光が戻る。
「…あれ?ここは?」
イアンが状況を理解できないでいると、トマスが頭を引っ叩いた。
「こんの未熟者が!悪霊などに身体を乗っ取られるとは何事か!?」
「トマスじい?何が何だかさっぱり分からないんですが…」
「僕が説明しよう」
リックがこれまでの経緯をイアンに伝える。
聞き終わった後、イアンは頭を抱えた。
「…それは俺が悪かったとしか言えないな」
「うむ、お主は精神から鍛え直しせねばならんのう」
「お願いします…」
「とりあえず、まずは負傷者の救護じゃ。ほれ、さっさと動かんか」
「はい。リビー先生を呼んできます」
イアンは医務室へと駆け出す。
その後、ネルを引き連れてきたリビーは治療と称した実験を嬉々として行うのだった。




