60.喧嘩
訓練が長引き、すでに日が落ちた帰り道をイアンは早足で歩いていた。
すると、見覚えのある男がイアンの行く手を遮る。
「お前は確か…」
「リックだ。こうして話すのは去年の夏以来だな」
「何の用だ?」
「彼がお前を呼んでいる。一緒に来てもらおう」
「彼?誰のことだ?」
「ここで言う必要はない。行けば分かる」
話が通じないリックに、イアンは眉間にしわを寄せる。
「こっちは疲れてるんだ。また明日にしてくれ」
「残念だが、それは認められない」
リックが指を鳴らすと、数十人がイアンたちを囲む。
大半が三年生だったが、下級生も何人か混ざっているようだ。
そのほとんどが武器を手にしており、丸腰のイアンには少々分が悪い。
ただ、大人しく従うつもりもなく、イアンは拳を握り戦闘態勢を取った。
「この人数を相手にやりあう気か?この場にいるのは、それなりに戦える人間ばかりだ。一人でどうしようというんだ?」
「全員倒せなくても、逃げるくらいはできるだろ」
「なるほど。しかし、お前に逃げる選択肢があると思うか?」
「どういう意味だ?」
リックは懐に手を入れ、何かを取り出す。
「これに見覚えはあるだろう?」
リックが手にしていたのはクレアの髪飾りだった。
「それはクレアの…」
「そうだ。彼女は人質にさせてもらった」
「人質だと?お前、自分が何をしたのか分かってるのか?」
イアンは鬼の形相でリックに詰め寄ると、その胸倉を掴む。
にもかかわらず、リックは余裕の表情だ。
「まあ、落ち着け。彼女を傷つけたくなければ、大人しく従うことだ」
イアンは舌打ちをして、リックから手を放した。
「そうだ。それでいい。ついて来い」
歩き出すリックを睨みつけ、イアンは案内に従った。
イアンが連れて来られたのは、学園の外れにある倉庫だった。
長く使われていなかったのか、壁の一部が崩れ、窓ガラスも所々割れている。
「さあ、中に入るんだ」
リックが扉を開け、イアンを招き入れた。
倉庫の中に灯りはないが、屋根に空いた穴から月明かりが差し込んでおり、それ程視界は悪くない。
保管されている物品はなく、床には木切れなどが散乱している状態で広々とした空間だ。
「ジョナス、連れてきたぞ」
「おう」
短い返事の後、奥から足音が聞こえ、影からジョナスと呼ばれた男子生徒が現れた。
髪を剃り込み、制服を着崩したその風貌は、学園生とも貴族とも思えない。
ジョナスは目の前まで来ると、品定めするようにイアンをジロジロと見た。
「お前がイアン?」
「そうだ。クレアはどこだ?」
「クレア?誰だ、そいつ?」
「お前らが人質にしたんだろうが!」
イアンが怒りを露わにするが、ジョナスは首を傾げていた。
「おい、リック。どういうことだ?」
ジョナスの質問に、リックが肩を震わせて笑い始める。
「何が可笑しい?」
「いや、こうも見事に騙されてくれるとは」
「どういうことだ?」
「人質はいない。この髪飾りもよく似たものを見つけてきただけ。要は、君をここまで連れてくるための嘘だ」
「は?」
イアンから間の抜けた声が漏れる。
「本当に誘拐などすれば厳罰は免れない。それが分かっていて、人質を取るなんて馬鹿な真似をするはずがないじゃないか」
クレアに害がなかったことに安堵しつつも、騙されたことに腹が立たないわけじゃない。
イアンは大きく息を吐くと、出口に足を向ける。
「俺は帰るぞ。もうこんな面倒に巻き込…」
言葉の途中で不意に背後からの殺気を感じ、イアンは咄嗟に腕で顔を庇う。
そこにジョナスの拳が叩き込まれ、防御ごと弾き飛ばされた。
倒れはしなかったが、殴られた腕がビリビリと痛む。
「そう急いで帰ることねえだろ?せっかく来たんだ。俺と喧嘩しようぜ」
「喧嘩だと?」
「最近、まともに相手になる奴がいなくてな。お前なら期待できそうだ」
ジョナスは拳をポキポキと鳴らす。
いつの間にか、イアンとジョナスを取り巻きたちが囲んでおり、舞台が整えられていた。
この場から逃げるとなれば、取り巻きを蹴散らすのは簡単だ。
しかし、先程受けた一発を鑑みると、それを許すほどジョナスは甘くない。
そう判断し、仕方なくイアンは構えを取った。
「やる気になったか?なら、行くぜ!」
ジョナスはイアンに殴りかかる。
だが、今度は真正面からの攻撃。
イアンが拳をいなし、反撃をするのは容易いことだった。
顔面への殴打により、ジョナスは鼻血を流す。
普通の人間なら、これで多少は戦意を失うだろう。
だが、ジョナスは声を上げて大笑いした。
「これだ、これ!この血が沸き立つ感覚!こんな喧嘩を待っていたんだ!」
ジョナスは鼻血を拭うと、再び拳を振り上げる。
イアンもその攻撃も躱して、今度は鳩尾に肘を叩き込む。
「まだまだ!」
それからジョナスは何度もイアンに殴りかかる。
その度にイアンは強めの反撃を加えた。
だが、ジョナスには対して効いてなく、疲れた様子も見せない。
(こいつ、タフすぎるだろ)
明らかに優勢であるにも関わらず、ジョナスの打たれ強さに無意識に決着を急いでしまったのかもしれない。
次のジョナスの拳を避け、イアンが腹に拳を叩き込んだ時だった。
攻撃を受けながらも、ジョナスはイアンの胸倉を掴んだのだ。
イアンは即座にその手を振りほどこうとした。
だが、ジョナスはイアンをしっかり掴んだまま放さず、さらにもう一方の手でイアンを捕える。
「ちゃんと耐えろよ」
ジョナスは大きく背を反らすと、頭突きを繰り出した。
「…っ!」
がっちりと捕まえられていたイアンは回避もままならず、頭へもろに攻撃を食らってしまった。
その衝撃で脳が揺らされ、思考と身体の自由を奪われる。
一方のジョナスはイアンを片手に掴んだまま、拳を振るい始めた。
まるで岩石を殴るような音が幾度となく響き、イアンの痣を増やしていく。
「反撃しろよ!このまま殴られるなんてつまんねえだろ!?」
煽りを受け、イアンはジョナスを蹴り飛ばした。
それによりジョナスの猛攻からは解放される。
だが、脳震盪の影響が残っており、イアンの足元はおぼつかない。
「おい、それ貸せ」
ジョナスは取り巻きから鉄の棒を受け取る。
そして、大きく振りかぶると全力で側頭部を打ち抜き、イアンに膝をつかせた。
そのままジョナスは鉄の棒でイアンを滅多打ちにする。
一分ほど打ち続けられたイアンは倒れ込み、動かなくなった。
ジョナスは鉄の棒を投げ捨て、ため息をつく。
「こいつもこんなもんか…帰るぞ」
イアンへの興味を失い、ジョナスは倉庫から出て行った。




