44.鉄槌
イアンとレイが教室を移動していると、少し離れた所でネルが歩いているのを見かける。
すると、後ろから近付いてきた女子生徒たちがネルの頭から水をかけた。
ずぶ濡れになったネルを見て、女子生徒たちは声を上げて笑う。
さらには男子生徒がわざと肩をぶつけ、ネルを転ばせる。
そして、床に散らばった荷物を踏みつけ、その場から立ち去っていく。
イアンがネルに関わらなくなってからというもの、ベリンダたちは人目もはばからずネルへのいじめを行うようになっていた。
「ねえ、イアン。あれ…」
「気になるなら、レイが助けてやればいい」
「僕だって助けてあげたいよ。でも、僕が介入すれば伯爵家との間で争いが起こりかねない。だから、君でないとダメなんだ」
「知るか。差し伸べた手を振り払ったのはあいつだ。あいつがそれを望んだんだ」
「そうかもしれないけど、何か事情があったんじゃ…」
「俺は手出しするつもりはない。行くぞ」
イアンはそう吐き捨てると、さっさと歩き出してしまう。
レイは泥に汚れた荷物を拾うネルを一瞥して、イアンを追いかけた。
それから一ヶ月。
ベリンダたちの所業は頻繁にイアンの耳に届くようになっていた。
その状況に対して、クレアやセシリアなど、イアンに苦言を呈する者はいた。
だが、何を言われようとイアンが動くことはなかった。
ある日の朝、イアンが教室に来ると、イアンの席の周りにレイたちが集まっていた。
「おい、どうしたんだ?」
「あ、イアン。やっと来た」
レイが避けると、そこには俯いてポロポロと涙を流すネルが座っていた。
以前自慢していた髪はバッサリと切られている。
「…何があったんだ?」
「それが、私が来たらネルちゃんが教室の前でしゃがみ込んで泣いてて…話ができそうになかったから、中に入ってもらったんだけど」
クレアは心配そうにネルの背中に手を当てていた。
「…ごめん」
ネルがポツリと呟く。
「髪切られて。クレア姉ちゃんがくれた髪飾り、壊されたんだ。ごめん」
ネルが握っていた手を開くと、粉々になった髪飾りがあった。
それを見たクレアはネルを抱きしめる。
「私の方こそ、ごめんね!助けてあげられなくて!」
上位貴族を相手に動けなかったのは仕方がないことであるが、クレアも一緒になって涙をこぼし始める。
「イアン、これ以上は…」
イアンに視線を向けたレイは途中で言葉を飲み込む。
そこには静かな怒りをまとったイアンがいた。
すると、ネルがイアンの袖を掴む。
「助けて…」
ネルの助けを求める小さな声にイアンの中で何かが弾けた。
イアンは制止の声も聞かず、早足で教室を出ていく。
道中、全開で殺気を飛ばすイアンに生徒だけでなく教師でさえ道を譲らざるを得なかった。
ネルの教室に着くと、イアンは音を立てて扉を開ける。
そして、ベリンダの姿を確認して足を向けるが、自慢の取り巻き二人がイアンの前に立ちはだかる。
「おい、止まれ」
「ベリンダ様に近付くんじゃない」
二人はイアンの肩に手を置いた。
「どけ、雑魚が」
次の瞬間、一人は壁に叩きつけられ、もう一人は机を散らしながら吹っ飛ぶ。
気絶した二人はピクピクと泡を吹いて痙攣する。
「…き、きゃぁぁぁ!」
数秒の後、現状を理解した女子生徒たちのから悲鳴が上がった。
そんな周囲のことなどお構いなしにイアンはベリンダの前に立つ。
冷徹な目を向けるイアンにベリンダの顔は青く染まる。
「わ、私は伯爵家ですよ?私に手を出せばただでは…ぐふぅ!」
イアンは最後まで聞かず、ベリンダの腹に膝を蹴り入れる。
ベリンダはその場に座り込み、嘔吐いていた。
イアンはベリンダの髪を掴み、顔を上げさせる。
「なあ、自分が何をしたか分かっているのか?」
「いったい何のこと…ぶっ!」
イアンは誤魔化そうとしたベリンダの頬を叩く。
「もう一度聞く。お前は何をした?」
「な、何よ!ちょっと遊んであげただけじゃない!」
「遊んだだけ?本気で言ってるのか?」
「ええ、むしろ私に感謝すべきよ!平民なんかに構ってあげているんだから!」
ベリンダに反省の色は一切見られない。
「それにあの子、学園を辞めたいらしいじゃない!私はその手伝いを…」
「もういい、黙れ」
これ以上耳障りな声を聞く気が失せたイアンは手を振り上げた。
その瞬間、頭の中にあの声が響く。
⸻随分ナ怒リノ感情ジャナイカ
(またお前か)
⸻ソウ邪険ニスルナ。デ、殺スノカ?
(ああ、こんな屑に生きる価値はない)
⸻イイゾ。殺セ。オ前ノ思ウガママニ
(言われなくても、そのつもりだ)
イアンは拳を握り込むと、ベリンダの顔面を一発、また一発を殴り始めた。
「ちょっ…痛っ…やめ…」
ベリンダの声はだんだんと消え、教室内には殴る音だけが響く。
拳は血で染まり、自然にイアンの口角は吊り上がる。
その異様な光景に、その場にいた誰もが呆然と見ているしかなかった。
ベリンダの意識はすでに失われていたが、本気で殺しにかかるイアンの手は止まらない。
その時、教室の扉が開き、レイとネルが駆け込んでくる。
「イアン、ダメだ!それ以上は死んでしまう!」
レイがイアンを羽交い締めにする。
「止めるな。こいつはここで殺す」
レイに止められてなお、イアンは拳を振り上げた。
だが、その腕にネルが組み付いた。
「もういい!もういいから!」
ネルの必死の制止にイアンは拳を緩めた。
「いいのか?」
「憎いけど、死んでほしいとまでは思ってない!」
ネルはそう言って、虫の息となったベリンダの治癒を始めた。
イアンはネルの行動を理解できず、呆気に取られる。
その後、クレアが呼んだギルバートによって、事態は収拾された。
レイがイアンの部屋をノックする。
顔を覗かせたイアンの身体からは湯気が立っていた。
「今日のノート持ってきたよ。トレーニングしてたの?」
「ああ、ダリルがいろいろと持ってきたからな。とりあえず、入ってくれ」
イアンはレイを部屋に招き入れた。
「謹慎生活はどう?」
「まあ、ぼちぼちだ」
ベリンダの件で、イアンは一ヶ月の謹慎処分を受けていた。
退学になる寸前であったが、レイたちの嘆願により謹慎程度で済んだ。
ちなみに、ベリンダも二週間の謹慎処分が下されている。
「ネルはどうだ?」
「うん、いじめはなくなったみたいだよ。イアンの鉄槌が相当効いたんだろうね。そうそう、ネル嬢からの手紙を預かってるんだ。あとで読んであげるといい」
レイは手紙を渡すと、部屋から出て行く。
下手な字で書かれた宛名をしばらく見つめ、イアンは封を開けた。




