40.ネルの異変
「あ、イアン君。ちょっといい?」
今日の講義が終わり、イアンが教室を出て行こうとすると、クレアに呼び止められる。
「どうしたんだ?」
「えっと、ネルちゃんのことで伝えたいことがあって…」
「ネルが何か迷惑をかけたか?」
「ううん、そういうわけじゃないよ。ネルちゃんはとってもいい子だし、最近はよく一緒にお茶しながらおしゃべりしてるんだ」
イアンはクレアが違う誰かの話をしているのかと一瞬思った。
なぜなら、イアンの前でのネルは文句や我が儘ばかりで、憎たらしいとさえ感じさせる態度なのだ。
しかし、クレアに見せる表情はまるで違うらしい。
「でもね、少し気になることがあって。私の勘違いかもしれないけど…」
「勘違いでも何でもいい。言ってくれ」
イアンに促され、言い淀んでいたクレアは口を開いた。
「時々…ほんと時々なんだけど、すごく辛そうな顔をネルちゃんがするんだ」
「辛そうな顔?ネルが?」
「うん。何かを我慢しているみたいなんだ。でも、どうしたの?って聞いてみても、大丈夫だって言い張るからそれ以上は分からなくて…」
イアンにはネルのそんな表情は想像もつかなかった。
むしろ仏頂面ばかりが思い浮かんでしまう。
「だからイアン君、お願い。ネルちゃんのこと、ちゃんと見てあげて。私もできる限り声をかけるようにするから」
「…分かった」
とりあえず返事はするが、イアンはまずクレアの話の真偽を確かめようと考えていた。
そのためには、ネルから聞くのが一番手っ取り早いだろう。
だが、下手に聞き出そうとすれば、機嫌を損ねるのは目に見えている。
ネルへの接し方に頭を悩ませながら、イアンは図書館に向かった。
「…ゴブリンの知性は決して低くなく、罠を仕掛ける、えーっと、狡猾さ?を持つ。ゆえに、ゴブリンとた、対峙するならば油断は禁物だ」
「そこまででいいぞ。大分読みはできるようになってきたな」
「そうだろ?もっと褒めていいぞ」
ネルは得意気に胸を張る。
「はいはい。まあ、書きの方はまだまだみたいだがな」
イアンはネルが文を書いた紙を手に取る。
頑張れば読めないことはないが、誤字脱字や語順の逆転など、間違えている箇所が多い。
「うっさいな。言いたいことが分かればいいだろ」
「内容が伝わっても、これじゃ読み辛いんだよ。せめて語順くらいは守ってくれ」
「めんどくせ~」
「クレアと手紙の交換する約束したんだよな?このままだと一生できないぞ。いいのか?」
「…それは嫌だ」
「だったら頑張るんだな。ほら、例文集の書き取りの続きからだ」
「うへ~」
ネルは不満を声に出しつつも、イアンに従って書き取りを始めた。
その間、イアンは本を読む振りをしながら、ネルに目を向ける。
初めて会った時のネルは痩せていた上、髪も短く、少年と勘違いする風貌だった。
ただ今は、学園の食事がよいのか、少しふっくらとして血色のよい顔つきとなっている。
髪もクレアの影響により伸ばしているらしく、肩の下辺りくらいの長さだ。
これでは、さすがのイアンも男とは間違えないだろう。
しばらく観察していたが、ネルはクレアの言っていた表情を一切出さなかった。
むしろ、いつもより機嫌がいいようにさえ見える。
本当にクレアの勘違いだったのだろうかとイアンが思い始めていた頃、突然その時は訪れた。
「あら、ネルさん」
声が聞こえた瞬間、ネルの手が止まり、顔が強張る。
「お勉強しているの?随分頑張っているじゃない」
声の主は派手な髪型をした女子生徒であり、ネルを蔑むような視線を向けていた。
その後ろには取り巻きを何人か引き連れており、イアンたちを囲むように陣取る。
女子生徒はイアンの方を向き、どこか胡散臭い笑顔を浮かべた。
「ごきげんよう。私はキルナー伯爵家のベリンダです。ネルさんとはクラスメイトなのですよ。貴方は平民のイアン先輩ですよね?」
ベリンダは“平民”という単語をわざとらしく強調する。
「俺を知っているんだな」
「ええ、学園では有名人ですから。何でも、平民でありながら、二年生で五本の指に入る実力者であるとか。しかし、実際のところどうなのでしょう?」
「さあ、どうだろうな。全員と手合わせしたわけじゃないし、まだ強い奴はいるんじゃないか?」
「まあ、随分謙虚なのですね。ちなみに、こちらにいる二人は学年で一、二を争う程の実力ですよ」
ベリンダは両脇に控える二人の男子生徒を示す。
彼らは強さを見せつけんと力こぶをつくる。
「そうか、一度模擬戦をしてみたいところだな」
「もしかすると、イアン先輩に勝ってしまうかもしれませんね」
「いや、それはない」
イアンの即答に、ベリンダは面食らったようだった。
ベリンダは咳払いをして、会話を続ける。
「…なぜ、そう言いきれるのでしょうか?」
「見れば分かる。そいつらの筋肉は大きいだけで無駄ばかりだ。実戦的なものじゃない」
イアンはダリルの姿を思い浮かべた。
ダリルも筋肉至上主義だが、その肉体は洗練されているのだ。
ただ、想像のダリルのポージングがうっとうしかったので、イアンはすぐに頭から消した。
「そ、そうなのですね…ところで、最近社交界でイアン先輩の悪名が噂されているのはご存じですか?」
取り巻き自慢が空振りに終わったベリンダは無理矢理話題を変えた。
「悪名が広まる程、何かした覚えはないな」
「今から私が述べることに心当たりはありませんか?公爵家の令嬢の腕を折った。侯爵家の子息をこき使っている。別の侯爵家の子息を投げ飛ばした。伯爵家の令嬢を泣かせた。貴族の令嬢を誑かしている…」
ベリンダはつらつらと述べていく。
身に覚えがあるものもあったが、大半は誤解や曲解であり、事実ではない。
「まだまだありますが、これらに関して謝罪してはいかがでしょう?」
「その必要はない。そもそも今お前が言ったことのほとんどはデマだし、事実も確かにあるが解決済みだ。何なら本人に聞きに行くか?」
「いえ、遠慮しておきますわ…」
思惑通りに行かなかったことが悔しかったのか、ベリンダは歯噛みする。
「では、私はこの辺りで失礼します。そうそう、ネルさん。また後で会いましょうね」
ベリンダは取り巻きを連れて図書館を出て行った。
「…ネル。何なんだ、あいつは?」
ネルは先程から下を向いたままで、イアンの問いかけに反応しない。
「おい、聞いてるのか?」
「あたし、帰る」
「待て、まだ話は…」
「今日はもう疲れた!ほっといてくれ!」
ネルは怒鳴ると、走って図書館を出ていった。




